内的自己対話―川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。

2026-05-01から1ヶ月間の記事一覧

グノーシス研究の進展と連動するヴェイユ思想解釈

その初版が1973年に刊行されたシモーヌ・ペトルマンのシモーヌ・ヴェイユ伝は、それから半世紀以上経た今日でも、その後出版された多数のシモーヌ・ヴェイユ伝と比べて圧倒的な情報量を誇り、もちろんそれらによって訂正・補完されなくてはならない点はある…

「正統」という名の狂気、あるいはベジエの虐殺について ― シモーヌ・ヴェイユ『根をもつこと』の一節から

『根をもつこと』(岩波文庫、上下二巻)の下巻からは一箇所のみ引用する。 まず、上巻でも言及されていたベジエの虐殺にヴェイユが再び言及している箇所を読んでみよう。 ベジエのカトリック教徒は同郷の異端者たちの身体に剣を突きたてるどころか、彼らの…

「一二世紀のトゥールーズの周辺には、もっとも気高い思想が人間的環境のなかで生き生きと息づいていた」― シモーヌ・ヴェイユの手紙より

昨日の記事で引用した『根をもつこと』の本文の少し後に「アルビ派」という言葉が使われている。この言葉への訳注には、カタリ派の理論的特徴が簡単にだが示されており、ヴェイユが高く評価していたカタリ派の研究者デオダ・ロシェ(Déodat Roché, 1877‐1978…

中世南仏の人びとにとって北方の「フランス人」は異邦の民、蛮族であった ― シモーヌ・ヴェイユ『根をもつこと』より

シモーヌ・ヴェイユの『根をもつこと』には、カタリ派およびアルビジョワ十字軍に言及している箇所が少なからずあり、岩波文庫版(上下二巻、2010年)には、それらの箇所に詳細な訳注が付されている。 まず、上巻からそれらの訳注のうちのいくつかが付されて…

シモーヌ・ヴェイユのカタリ派への共感はどこから来るのか

冨原眞弓氏の『シモーヌ・ヴェイユ』(岩波現代文庫、2024年)には、カタリ派に言及している箇所が三つあり、巻末の事項索引にもそれらの頁が示されている。その三箇所の摘録を通じて、ヴェイユのカタリ派への共感の理由を探ってみよう。 最初の箇所は、戦時…

シモーヌ・ヴェイユからカタリ派へ、あるいは「正統」の残虐性と「異端」の純粋性について

昨日の記事を書いた時点では、渡邊昌美の『カタリ派とアルビジョア十字軍 中世ヨーロッパの異端運動』についての言及は、今日一回でさらっと終わりにしようと思っていたのですが、そもそもなぜ自分がカタリ派に関心を持つようになったかに少しでも触れようと…

電子書籍版の道具としての有用性と紙版の物としての質的存在感

電子書籍を読むというか使うようになってかれこれ十年になる。授業の準備や研究のための資料調べには大いに威力を発揮してくれていて、時間の節約と守備範囲の拡張への貢献はきわめて大きい。 ただ、電子書籍に物として愛着を抱けるかというと、私には難しい…

エミール・ギメ『明治日本散策 横浜・鎌倉』に見られる「人力車」および「人力車夫」へのギメの称賛と敬意の念

漱石の主要な作品と講演のなかで、「人力車」という言葉は10回ほど使われている。『吾輩は猫である』二箇所、『趣味の遺伝』一箇所、『草枕』一箇所、『夢十夜』一箇所、「現代日本の開化」四箇所、『彼岸過迄』一箇所。 このなかで特に目を引くのは、講演「…

先月の文庫新刊からお薦めの一冊 ― エミール・ギメ『明治日本散策 横浜・鎌倉』

先月の角川ソフィア文庫新刊の一冊、エミール・ギメの『明治日本散策 横浜・鎌倉』(岡村嘉子 訳・解説)はとても楽しい読み物だ。原著は Promenades japonaises というタイトルで1878年に刊行されている。この巻には、同名タイトルの続編があり、2年後の188…

「日本文明」学期末試験の採点を終えての感想

今日から一週間、ギゾー論はお休みします。種が尽きたからではなくて、逆にありすぎて、ちょっと論点を整理してからまた立ち戻ります。 今週は学期末試験期間で、私が学部で担当していた四つの授業の試験もありました。月曜日には応用言語学科日英併修コース…

教育行政家としてのギゾー(6)―ギゾー法をめぐる議会での議論 ②

下院を説得するため、ギゾーはその後、かなり巧妙な議論を展開した。 もし司祭が善意の人物であれば、委員会にとっても好都合であり、もしそうでない場合(そのような可能性も確かにあるが)、それでもその人を委員会内部に留めておく方がよい。4人の非宗教…

教育行政家としてのギゾー(5)―ギゾー法をめぐる議会での議論 ①

ギゾーの法案は、フランス国民に初等教育を普及させるにあたり、国家と教会(主にカトリック教会)との間に、競争関係というよりはむしろ相互補完関係を築こうとするものであった。その審議において、実質的な異論はほとんど出なかった。というのも、初等教…

教育行政家としてのギゾー(4)― 初等教育に関するギゾー法の要点

今日も「ギゾー法」として言及されるこの初等教育に関する法律は、ギゾー自身によれば、「本質的に実用的な」ものであり、体系的な考え方は一切含まれておらず、「この法律が公然と掲げている目的、すなわち国民の教育の最大の利益を図ること以外を目的とす…

教育行政家としてのギゾー(3)― 歴史の遷移と社会の現状を見きわめた上でのバランスの取れた法案の提出

国家と宗教と関係という近代国家建設にとって避けて通れない大きな問題に対して、確固たる歴史認識に裏づけられたギゾーの政治家としてのバランス感覚がよく示されている演説の抜粋を読んでみよう。この演説は、1832年2月16日、小神学校に対する補助金の半減…

教育行政家としてのギゾー(2)― 「教育の自由」あるいは国家と教会との関係

有能な同僚と部下に支えられながら、ギゾーは、自らが認識している通り、二つの側面を持つ任務に着手する。 第一の側面は、以前から提唱されていた意見や近年の試みに基づき、旧体制の終焉以来、公権力によって事実上放置されてきたフランスの初等教育を再構…

教育行政家としてのギゾー(1)― その基本的教育観

1832年に国民教育大臣に就任するまでのギゾーの教育への関心と教育行政への関与をざっと見ておきたい。 カトリック聖職者による教育統制を主張する1815年選出のフランス下院からの攻撃に対し、ギゾーは、師であり友人でもあるロワイエ=コラールが当時総長で…

歴史家としてのギゾーのキャリア(9)― ただ歴史家であり続けるために

また、ギゾーは、原因と結果の必然的な連鎖を解き明かし、立証することに心を砕いているから、単なる物語の語り手ではない。彼は、人を楽しませたり喜ばせたりするための物語を展開するよりも、はるかに多くの歴史の教訓を伝えているのである。彼が人物描写…

歴史家としてのギゾーのキャリア(8)― 神の摂理の介入を一切排除する歴史観、出来事そのものが自らの説明を内包している

この正確さと情報への要求は、ギゾーが抱く歴史観そのものに合致する。 彼は1828年に、歴史は次の三つの要素から成ると記している。「いわゆる事実、すなわち外的で物質的なもの;事実が結びつき、変化する根拠となる、普遍的かつ不変の自然の力と法則; 人…

歴史家としてのギゾーのキャリア(7)― 時代に先駆ける厳密な学問的姿勢

次の一節を読むと、ギゾーが当時としては例外的に厳密な学問的姿勢を堅持していたことがわかり、そのことが後代の学術研究にとって一つのモデルとなったこともまた彼の学術的貢献の一つとして評価されてしかるべきだろう。 当時の利用可能な手段の範囲内にお…

歴史家としてのギゾーのキャリア(6)― 政治と学問の実り豊かなコラボレーション

しかし、国家の歴史は、あらゆる点において、単なる民間の取り組みに委ねておくにはあまりにも重要な問題であった。国家はこれに直接利害関係を持っていた。「わが祖国の歴史に関する重要かつ未発表の資料をすべて網羅的に刊行するという大事業を成し遂げる…

歴史家としてのギゾーのキャリア(5)― 大臣としてのギゾーの文化行政における貢献

以下の短い一節を読むだけで、ギゾーがフランスの歴史研究推進のために長年にわたって多大な貢献をしていることがわかる。1830年以降、7月王政下では、国務大臣としての任を果たしながら、学問的かつ行政的に重要な役職の設置を実現し、フランス歴史研究の発…

歴史家としてのギゾーのキャリア(4)― 歴史家として政治的に行動する

Laurent Theis, Guizot. La traversée d’un siècle, IV. L’historien dans ses œuvres のなかの « La science et la politique » と題された節は、ギゾーにおける学問と政治との関係を考えるうえできわめて重要な指摘を多々含んでいるので、一切省略せずに訳…

歴史家としてのギゾーのキャリア(3)― 文明史は総合史である

以下の Laurent Theis の説明を読むと、ギゾーはまさに歴史家になるべくしてなったとも言えるように思えてくる。フランス革命期から復古王政期を経て、1830年の7月革命後に政治家としてのキャリアへと踏み出すギゾーは、単に同時代の激動の第一線の生き証人…

歴史家としてのギゾーのキャリア(2)―ヨーロッパ文明史にとっての幸運な巡り合わせ

現代では、フランスに限らず、どんな国家においても、ギゾーのような仕方で大学の教授に就任することは、まったく想像外であろう。 理系では、ある分野での天才少年が十代で博士号を取得し、大学で教授を始めるということは、まったくないことではないにして…

歴史家としてのギゾーのキャリア(1)―「歴史こそがお父さまの真の情熱です」

お久しぶりです。 しばらくLaurent Theis の Guizot. La traversée d’un siècle からの引用のみで、一言のコメントさえないどころか、出典表示さえありませんでした。翻訳にところどころ補足を加えたり、逆に端折ったところもあるので、それをいちいち断るの…

亡き妻との「文通」― クウォート・オンリー・モード(12)

ポリーヌの兄のエドゥアールとテオドールは、一人は会計検査院で、もう一人は軍隊で輝かしいキャリアを築く。妹のアンリエットが優秀な技師ジャック・ディロンと結婚する。しかし、ポリーヌは独り身のままだった。 彼女がギゾーとの恋に落ちたことは確実と見…

18世紀の啓蒙思想の光の中で育ったポリーヌ ― クウォート・オンリー・モード(11)

1807年3月中旬、ギゾーは『ル・ピュブリシスト』の幹部の一人であるジャン=バティスト・スアールと昼食を共にしていた際、同紙の女性寄稿者ポリーヌ・ド・ムーランが家庭の不幸に見舞われ、執筆できない状態にあることを知った。 彼は匿名で彼女に手紙を書…

『教育年報』、ギゾー夫妻の完全に対等な立場でのコラボレーションの産物 ― クウォート・オンリー・モード(10)

ギゾーの「ドイツ志向」は、ポーリーヌ・ド・ムーランと共に『教育年報(Annales de l’éducation)』を創刊した際にも役立った。 この月刊誌は、表題が示すとおり、純粋に教育学と子供の指導に特化したものであった。当時、このテーマは流行しており、特にス…

ジャーナリストとしての活動が将来の歴史学者と政治家を準備する ― クウォート・オンリー・モード(9)

ギゾー自身としての『ル・ピュブリスティスト』への寄稿は、1807年9月から始まった(月8篇で200フランの報酬)。彼は合計248篇を「R」の署名で寄稿し、最終号である1810年11月まで続けた。これは彼にとって決して無視できない経済的資源となった。ジャーナリ…

14歳年上のポリーヌ嬢との運命的な出逢い ― クウォート・オンリー・モード(8)

ギゾーがその長い公生涯を通じて果たしたあらゆる職務や活動の中で、ジャーナリストとしての活動は、決して最もよく知られたものではないものの、決して些細なものでもなかった。 彼自身は、自らその資格を主張したり、その肩書きを名乗ったりしたことは一度…