内的自己対話―川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。

仁義なき口頭審査

 

 昨日午後、明治初期から太平洋戦争末期までの小学校における道徳教育をテーマとした修士論文の口頭審査があり、審査員の一人として審査に「参戦」しました。
 当該の学生は、彼が学部2年生だった2019‐20年度から知っていて、修士進学時から数えて今回の論文提出まで5年かかったことになります。とても人懐っこい学生で、授業では、ときにはとてもいい質問もしてくれることもありましたが、如何せん、修士論文にふさわしい議論を構成するだけの論理的思考力には明らかに欠けるところがあると言わざるを得ません。今回の論文の評価を率直に一言でまとめれば、「とにかくよく論文書き終えられましたね。長い間、あきらめずによく頑張りました。おめでとう! パチパチパチ」、となります。
 テーマはとてもいいのに、中身に関しては、明治期の修身の教科書の本文を適切に仏訳した努力は評価できるものの、立論としては、論文を読んでいる間中(確かに、酷暑の影響でこちらの脳内が沸騰しており、正常な判断は困難な状態あったことは認めますが)、「あんた、アホなの?」とか、「冗談も休み休みにしてくれます?」とか、仕舞には、「ナメとんのか、われ!」とか、声に出して言わざるを得ないほど、ほんとうにめちゃくちゃで、読み続けるのが、石打ちの刑(って、受けたことありませんが)より、苦痛でありました。
 その当然の帰結として、というか、しっかし「落とし前」をつけてもらうため、審査の席での私の講評は凄惨を極めました。最初、慣習に従って、にこやかに形式的で心にもない「褒め言葉」を並べた後、にわかに表情を強張らせての講評と質問は、これがもし殺人事件であれば(物騒な喩えで申し訳ありません)、「強い恨みをもった顔見知りよる残虐な犯行」と警察が断定するであろうほど、執拗かつ非人間的ものでありました。
 当の学生はといえば、私の講評と質問、というか、「言葉の暴力」(アカハラ認定間違いなし)によって打ちのめされ、仕舞には、息も絶え絶えの体でした。それを見届け「満足」した私は、「今日はこのへんで許しといたろか。せいぜい気張りや、にいちゃん」とはもちろん言いませんが、実質的にはそのようなことを意味するセリフを投げつけ、「次のセンセ、待っとるさかい、ほないくわ」と、もう一人の審査員である同僚にバトンタッチしました。
 ところがです。その同僚の講評は、私のそれより厳しいものでありました……。
 それはともかく、審査は「無事」終了し、学生はめでたく修士号を取得したのでありました。ブラボー!!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ほのかたらひし空ぞ忘れぬ」― 式子内親王の絶唱の一首、諸家の鑑賞(下)

 

 昨日の記事の冒頭に掲げた式子内親王の一首には「いつきの昔を思ひ出でて」という詞書が付いている。田渕句美子氏の『異端の皇女と女房歌人』の同歌の鑑賞はまずそのことに触れる。

 詞書にある通り、式子内親王が、斎院であった昔を回想して詠んだ歌である。「そのかみ」(昔という意)と、「神山」とが、美しい掛詞をなす。仮屋の神館に一晩宿ることを旅寝にたとえて「旅枕」と詠む。「旅枕」は清新な歌ことばで、式子は好んで詠み、四首あるが、ちょうど同時代前後に定家、慈円、良経らが何度も詠んでおり、特に定家に多く、これらは互いに影響をもちつつ詠まれたものである。斎院は一年に一度だけ、賀茂祭の日に神館に宿るが、そこで神のいます神山でひそやかに声を響かせた時鳥を、その声が響いてきた神々しい空を、忘れぬこととして心に刻み、回想する。「聞かばやなその神山の時鳥ありし昔のおなじ声かと」(『後拾遺集』夏・一八三)は類歌で、斎院禖子内親王に仕えた皇后宮美作が斎院の頃を回想して、今神館にいる女房に送った歌だが、式子の歌は、その時空そのものを呼び起こす。句頭で「ほ」「そ」「ほ」「そ」が繰り返され、句頭では巧まずして「お」母音が続き、やわらかい音調で流れるように詠む。静かな音楽のように美しい。

 「旅枕」が当時清新な歌詞であったと知ってこの歌を読めば、それを神事である神館での一夜の宿りである「仮寝」に用いる斬新さもさらに際立つ。神山から響いてきた時鳥の声をただ聞くというのではなく、「ほのかたらひし」と、その声がほのかに私に語りかけてくれたとすることで、そこに僅かな間であれ、時鳥を媒介とした、目に見えぬ神との交流があったことが暗示される。それゆえにこそ、期せずしてその交流が到来した「空ぞ忘れぬ」と、式子内親王の心に深く刻まれたその日のことが、歌を詠む今に蘇ってきているのではないだろうか。
 最後に、奥野陽子氏のこの歌の評釈を読もう。

神山は、そこに祭神別雷命が降臨するとされる賀茂別雷神社後方にある円錐形の神体山である。「神山の旅枕」は、斎院が賀茂祭の日、神山の麓の神館に一夜宿るのを「旅枕」といったのである。昔を意味する「そのかみ」と「神山」は掛詞になっている。神域で宿っていると時鳥の声がほのかに、語らいかけるように、空から聞こえてきたのであろう。時鳥の姿は見えない。夜明け方、あるいは「露のあけぼの」の頃であろうか、ほのかな声はほのかに明るんだ空を思わせる。時鳥の声はその時見上げた空の趣と重なって忘れられないこととなったというのである。祭日の仮寝の野辺に鳴いた時鳥は、他にもあるが、式子のこの歌の時鳥の声は、空から聞こえてきた神の声のようでもあって、ひときわ印象的である。(39頁)

 時鳥の姿は見えず、声だけがほのかに空から降りてくるのが、斎院としての一夜の神事である「仮寝」を終えようとしている夜明け方であろうという時刻の推定、初夏の清新なる緑深い神域から時鳥の声だけがかすかに聞こえてくるほのかに明るんだ空を見上げている詠歌主体の視点の特定、これらの要素をその他の鑑賞から学んだ諸点に加えて織り込んでこの一首を読むとき、この歌は、単なる若き日の「よき想い出」の回想を詠んだものではもちろんなく、過去における万物照応の経験の詩としての永遠化であるとさえ言いたくなる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ほのかたらひし空ぞ忘れぬ」― 式子内親王の絶唱の一首、諸家の鑑賞(上)

 

 

ほととぎすその神山の旅枕ほのかたらひし空ぞ忘れぬ (新古今集 雑上 一四八六)

 式子内親王の絶唱の一首とすることで諸家が一致している歌である。ただ、それぞれその讃えかたにおいて微妙に異なる。そこが面白く、それだけ学ぶところも多い。
 最初に掲げるのは、馬場あき子の『式子内親王』(講談社文庫、一九七九年。1992年にちくま学芸文庫版が出ているようだが未見)。著者はこの歌を「清楚な艶をたたえている」と評し、なぜかくも自分がこの歌に惹かれるのか自問し、自らその問いに答えている。

それにしても、「ほととぎすよ、その神山の旅の一夜に、お前がほのかに鳴いて過ぎた、その空の明けてゆく色を、どうして忘れ得ようか」という、それだけの内容の一首に、なぜ、私はこうまで執さざるを得ないのか。一句、そして三句と、幾つにも断絶しつつ続いてゆく抒情のゆれの中に、ほのぼのと露じめりの初夏の夜明けは訪れ、短い夢はあっというまに覚めてしまって、洗われた心の色のような空色の空間が、無限の時を秘めて式子の視野にひろがってゆく。はてしなくひろがるそれは、読者のはてしない艶な空想と重なり、式子について考えようとする時の出発点にまたいつのまにか戻ってきて佇んでいる。この「空ぞ忘れぬ」の一首にはそうした魅力があって、中々読者を立ち去らせないのである。まさに、式子の絶唱の一つであり、もっともうるわしい式子の夏を集約してみせたものといえるであろう。

 次に引用するのは、塚本邦雄の『王朝百首』(講談社文芸文庫、二〇〇九年。底本、昭和四十九年、文化出版局刊)の評釈。昨日の記事で引用した「忘れめや」歌を引いた後、その歌と「相呼び相答へつつまことにうつくしい」と讃える。

「ほのかたらひし空ぞ忘れぬ」は至妙の調べである。式子内親王は新古今否王朝八代集中最高とも言ふべき女流歌人であり、御集三百數十首すべて佳品であるが、この一首は殊にみづみづしくくきやかである。玲瓏とは珠玉の觸れあふ響きの謂であるがこの歌にもつともふさはしい形容であらう。古今の歌たとへば一萬を選び千に絞りさらに百を殘し最後に十とした場合も私は「ほととぎすそのかみ山のたびまくら」を決して捨てることはない。生涯を處女のままで深窓に閉ぢ籠つた貴種の歌、その少女の日を喚び返す初初しいときめきの歌、さういふ彼女の境涯に卽した鑑賞方法を離れてもこの作品のかなしさは紛れることはない。作者の計算の他ではあるが三十一音はA音11 O音10 I音5 U音4 E音1の構成、靉靆としてあはれをつくす和音はここから生まれるのであらう。また五句の頭韻は「ほ・そ・た・ほ・そ」まさにほととぎすの雲間に聲絕える風情を傳へてゐる。(124‐125頁)

 どちらの鑑賞も、そのすべての点に完全には同意できないにしても、二人とも言葉を尽くしてこの一首に格別の讃辞を捧げていることはわかるし、その導きによって私のこの一首の鑑賞も深められたこともまた確かである。
 明日の記事では、田渕句美子氏の『異端の皇女と女房歌人 式子内親王たちの新古今集』(角川選書、2014年)と奥野陽子氏の『式子内親王 ―たえだえかかる雪の玉水―』(ミネルヴァ日本評伝選、2018年)の同歌の鑑賞から学ぶことにしよう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

式子内親王歌における「うたたね」と「仮寝」の対蹠性

 

夢のうちも移ろふ花に風吹きてしづ心なき春のうたたね (続古今集 春下 一四七)。

 昨日の記事でも引用した式子内親王の上掲歌(今日の記事の写真は、この一首が載っている続古今集の頁。国文学研究資料館の国書データベースより)についての奥野陽子氏の『式子内親王』(ミネルヴァ書房、二〇一八年)の註解を見てみよう。式子晩年の「正治百首」の排列順で前歌の「霞ゐる高間の山の白雲は花かあらぬか帰る旅人」の註解を受けて、奥野氏はこう続けている。

 歌の排列は落花に移り、舞台はまた都の住まいになる。「しづ心なき」落花を詠む紀友則歌「久方の光のどけき春の日にしづこころなく花の散るらむ」(古今集 春下 八四)を想起しつつ、夢へとテーマが変わることによって、ここまでの旅が夢の中の出来事だったような効果がある。夢自体はかないものであるが、貫之の「宿りして春の山辺に寝たる夜は夢のうちにも花ぞ散りける」(古今集 春下 一一七)の旅寝をさらにはかない「うたた寝」に変化させ、二、三句は、古今集の「鶯のなく野べごとに来てみればうつろふ花に風ぞ吹きける」(よみ人しらず 春下 一〇五)の下句を取る。花とともにあって、花を思う心深く、ふとまどろんだつかのまの夢にも花を見るが、夢の花もうつつの花同様移ろうており、そのうえ風さえ吹いて、さらに花をはかなくするというのである。重層表現によって主題を明確にする式子らしい表現である。「春のうたたね」の句は、先例が定家にあり(拾遺愚草 六二八)、同時代には定家と式子以外に用例がないことも注意される。「あくといへばしづ心なき春の夜の夢とや君を夜のみはみん」(大納言清蔭 大和物語)とも詠まれるように「春の夜は「しづ心なき」もの、まして、かりそめの「春のうたたね」はそもそも「しづ心なき」ものであろう。上下句の繋がりは、下句の内容を上句が具体的にしているという関係で、その上下句の切れ続きが連歌の付合に近い深さにあることにも注目したい。

 「うたたね」は漢字で「仮寝」とも表記されることもあるが、古語では、これを「かりね」と訓むときは意味を異にする場合がある。式子内親王歌の場合、両者の違いは特別な重要性をもっている。

忘れめや葵を草に引き結び仮寝の野辺の露のあけぼの (新古今集 夏 一八二)

 この歌は、式子内親王が斎院であった十代の若き日に、「賀茂祭が終わり、神館に一夜宿って、翌日、還立をするその曙」(奥野上掲書)を回想して詠まれており、ここでの「仮寝」とは、「仮屋である神館に宿ること」(田渕句美子『異端の皇女と女房歌人』角川選書、二〇一四年)、つまり、斎院として神事の責務を果たすために一夜神館に籠ったことを意味している。
 式子内親王にとって、「仮寝」とは、かりそめに「うとうとと眠ること」である儚い「うたたね」とは対蹠的とも言える、神聖な行いだったのであり、この「忘れめや」歌について、奥野氏は、「神事を終えた曙の、何か永遠に触れるような体験を忘れはしないと詠むことで、誇り高く今の自分を支えている」と評している。
 そこから翻って本記事冒頭に掲げた「春のうたたね」歌を再び読んでみよう。
 すると、ある春日、うたたねからふと覚醒めたとき、夢の中でさえ風に吹かれて散ってゆく花の残像が脳裏に揺曳するままに、「しづ心なく」すべてうつろいゆく世をそれとして紛るるかたなく諦観する透徹した眼差しで眼前の景色を眺めている式子内親王の姿が立ち現れて来る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「うたたね」の夢の通い路 ― 式子内親王が好んだ歌語

 

 『源実朝』のなかで、実朝歌とその本歌とを比較して両者の優劣を論じている箇所に挙げられている歌の一つ、「このねぬる朝けの風にかほるなり軒ばの梅の春のはつ花」に対して、式子内親王の本歌「うたたねの朝けの袖にかはるなりならす扇の秋のはつ風」のほうが優れていると吉本は言う。どこがどう優れているか何の説明もないが、本歌のほうが確かに余情において勝っているようには感じる。
 「うたたね」は、竹西寛子が『式子内親王 永福門院』(講談社文芸文庫、一九九三年。原本、『日本詩人選』14、一九七二年)で指摘しているように、式子内親王が好んで用いた言葉のひとつである。いくつか例を挙げてみよう。

はかなしや枕さだめぬうたたねにほのかにかよふ夢の通ひ路

 

みじか夜の窓の呉竹うちなびきほのかに通ふうたたねの秋

 

窓近き竹の葉すさぶ風の音にいとどみじかきうたたねの夢

 

袖の上に垣根の梅はおとづれて枕に消ゆるうたたねの夢

 

夢のうちも移ろふ花に風吹きてしづ心なき春のうたたね

 「はかなし」「うたたね」「ほのか」「夢」、これらはすべて式子内親王がよく用いた言葉だが、最初の一首「はかなしや」を竹西は同書で度々引用し、次のような解釈を述べている。

「ほのかにかよふ」の情感が、淡く消えないで、水の波紋のようにひろがってゆくのをいいと思う。はかなさをはかなみながらも、それを肯う余裕もあって、自棄にも諦めにもまだ遠いほのかな甘さに憩うているものがある。

 

「ほのかにかよふ」の情感は、静止の相ではなく、内親王の好んで詠まれる動の相特有のものである。しかもそれが、夢現のはかなさにまとめられているための余情のみずみずしさは、この一首の褪せない若さだとも読み慣れてきたが、他にも内親王の詠まれた夢の歌は少なくなく、内親王を「夢の歌人」と称ぶ人もいるほどである。

 「はかなしや」の一首は、『千載和歌集』に採られているのだが、興味深いことに、その本文と竹西が繰り返し引用している同歌とには、一語違いがある。

はかなしや枕さだめぬうたたねにほのかにまよふ夢の通ひ路

 このように、『千載和歌集』では、「かよふ」ではなく、「まよふ」になっているのである。表記としては、「か」か「ま」かという一字の違いである。手元には、岩波文庫版(久保田淳・校注、一九八六年)しかないが、ネット上で閲覧可能な日文研データベースその他、確認できたかぎりでは、いずれも「まよふ」である。両者が底本の違いによる異同なのか、「かよふ」は誤記で、「まよふ」が正しいのか、つまり、「か」ではなく「ま」なのか、素人の私には決め手がないが、今日の記事の写真は、国文学研究資料館の国書データベースの式子内親王の当該歌が載っている『千載和歌集』の頁である。これはやはり「か」ではなく「ま」だと見えるが……。
 奥野陽子の『式子内親王』(ミネルヴァ書房、二〇一八年)でも「まよふ」となっている。そして、同歌について奥野はこう述べている。

「はかなしや」歌のような、主情語による初句切れの歌は、『新古今集』になるとほとんど採られなくなる、という意味では、この歌はいわば古いスタイルである。しかし、この歌は、「はかなし」という、二句以下の事象を諦念をもって大観するような語彙で詠まれており、初句の切れは深く、深く切れた上で二句以下と的確な呼応を形成している。「夢の通路」自体、うつつならぬはかない出逢いの細道である。「思ひ寝」の夢なら枕を置く方向を思い定めて、夢を見るつもりばかりは出来るのだけれど、そのつもりで寝たわけでもない「枕さだめぬ」「うたたね」の夢、と、はかなさは重ねられる。「ほのかにまよふ」はその夢の中の通路が、霧でもかかっているようにはっきりしなくて、迷ってしまうという意味であろう。逢うことのはかなさをまとった詞が出来るかぎり重ねられる。テーマに向かって幾重にも詞を重ねるという方法を式子はよく使うのだが、それが『千載集』の入集歌からすでに見られることにも注意しておきたい。

 確かに、「かよふ」よりも「まよふ」のほうが夢の通い路の不確かさがさらに深まる。竹西はいったいどの版に依拠したのだろうか。まさか思い込みではないだろう。
 期せずして、一語を入れ替えるだけで、どれだけ印象が変わるか実験できた格好になり、これはこれで歌の鑑賞を深める契機ともなって面白い。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

集中講義「現代哲学特殊演習」第1回と修士論文口頭審査

 

 午前6時から7時半(日本時間で13時から14時半)まで、集中講義「現代哲学特殊演習」の第1回目。2011年に担当し始めたこの集中講義、今年が15回目(2020年はコロナ禍のため休講)。3年連続、遠隔で行うことになる。
 一昨年は、せっかく大学付近に月極でマンションの借りたのに、受講者1名が合理的配慮として遠隔を希望したので、もう一人の受講者の同意を得て、急遽遠隔に切り替えた(その経緯については、こちらの記事「ケアを実践する場としての集中講義」を参照されたし)。昨年と今年は、年度始めに遠隔で行ないたいという私の意向を大学当局に伝え、事前に了承を得てのこと。
 今年度の登録学生は3名。修士1年が2名、2年が1名(昨年も受講)。三人とも女子学生。いつごろからかよくわからないが、哲学科に登録する女子が増えている(大学によっては、女子の方が多い年もあるとか)。
 私の印象としては、哲学を学びたい女子学生が増えたというよりも、哲学科の間口が広くなったというか、敷居が低くなったというか、他の学科に比べて就職で不利になることもないようで、いくつかの選択肢のなかの一つとして選んで来たという感じ。
 大学にもよると思うが、修論のテーマもかなり自由で、今年度の受講生一人のそれは「推し活」である。何をどう研究するのか知らないけれど。
 一回目は、毎年のことだが、イントロダクションとして、今年度の内容・目的、授業の進め方などについてのオリエンテーリング。内容については、こちらの記事「集中講義「現代哲学特殊演習」2026年度のテーマ・サブタイトルおよび目的・内容」を参照されたし。
 これも毎年のことだが、各回、学生には直後に感想を送ってもらう。2名の学生は授業一時間後に送ってくれた。なかなかしっかりした内容で、今後に期待がもてる。
 次回は来週金曜日、第3回目は15日水曜日。のこりの12コマは、学年暦の正規の集中講義期間20日から25日まで、毎日2コマ(3時間)のペースで行う。
 今日の午後には、日本学科の修士論文の口頭審査。論文を提出した学生が現在日本在住なので、すべて遠隔で行う。指導教授の依頼で、私が審査委員長(というか司会進行役)を務める。和やかな雰囲気で、型通りに進み、1時間半ほどで終了。これでこの学生も無事修士号を取得。メデタシメデタシ。
 かくして、今日のミッション完了!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「至極当たり前のこと」が通用しないポスト真理の時代の大学の黄昏 ― 理性・正義・平等・公平・公正をないがしろにする大学はその名に値するのか

 

 今日も詩歌の話をしたかったのですが、急遽、まったく別の話題に変えることにしました。

 実はここ数週間、修士課程の責任者としてかなりやっかいな案件を抱えていて、その件について、一昨日の学科の会議でも同僚全員と再度話し合ったのですが、その結果、私が大学上層部宛てに、事態の推移と学科としての決断を報告するメッセージを書くことになりました。そのメッセージの執筆に昨日丸半日をかけました。
 以下にそのメッセージの日本語訳を掲げます。ただし、個人情報に関わる部分はいっさい省き、今回の一件に関わる前後の状況も、当該者が特定されないように変更してあります。
 原文のメッセージは、言葉を選びつつも、今大学に蔓延しつつある憂慮すべき傾向に対する批判が含まれており、同僚の一人は、「これを読んだら、大学上層部は面白くないだろうね。でも、私たちは結束して事に臨もう」と励ましてくれました。
 メッセージを読んでいただいた後に、なぜこのようなメッセージを送ることになったのか、その背景を説明します。まずは、メッセージをお読みください。

件名の案件につきまして、修士課程責任者として、以下のとおりご報告申し上げます。

 

このたびは、本件に関し、学部長をはじめ関係各位に多大なるご配慮と貴重なお時間を賜りましたこと、まずもって厚く御礼申し上げます。また、本件について種々のご意見ならびにご助言をいただきましたことにも、重ねて御礼申し上げます。

 

本学科では、いただいたご意見を真摯に受け止め、専任教員全員により、当該学生の出願書類を改めて慎重に精査いたしました。

 

その結果、以下の点を確認いたしました。

一、学部最終学年次における主要科目の成績が、本課程で求められる水準に達していないこと。
二、学部卒業後の一年間における日本語能力の向上を客観的に示す資料が確認できないこと。
三、志望理由書において、この一年間に行った学習内容が具体的に示されていないこと。
四、研究計画書として提出された書類からも、日本語能力の顕著な向上を確認することが困難であること。

 

以上を踏まえ、本学科としては、当該学生の入学を認めないとする当初の判断を維持することを、全会一致で確認いたしました。

 

加えて、本件においては、他の志願者との公平性という観点を看過することはできません。今年度は二十名の定員に対して百六名の志願者があり、そのうち順位付けされた者は四十二名にとどまりました。順位付けされなかった(つまり不合格の)志願者の中にも、当該学生を上回る評価を得ている者が相当数存在します。このような状況において当該学生のみを特別に受け入れることは、選考全体の公正性を損なうおそれがあると考えます。

 

大学における入学者選考は、教育研究上の専門的判断、客観的基準、ならびに志願者間の公平性に基づいて行われるべきものです。したがって、学科として慎重かつ合議的に行った判断が、新たな客観的根拠を伴わないまま変更されることは、選考制度そのものへの信頼を損なう結果になりかねません。

 

また、大学は、学生に対し、理性的な判断と公正な手続きの重要性を学ぶ機会を提供する場でもあるべきはずです。その意味においても、本件については、個別の事情に配慮しつつも、制度として守るべき原則を明確にする必要があると考えております。

 

つきましては、弊学科としては、当該学生を受け入れないとの決定を最終的なものとして維持いたします。

 

当該学生には、来週、面談の機会を設け、上記の判断を直接伝える予定です。

 

何卒ご理解賜りますようお願い申し上げます。

 これだけ読むと、「至極当たり前のこと」を並べているだけに見えると思います。まさにそうなのです。つまり、「至極当たり前のこと」が、大学においてさえ、通用しなくなっているという危機感がこのメッセージの背景にはあるのです。
 事は、単に一学生の受け入れの可否ではないのです。事なかれ主義の権化の上層部は、面倒を避けるためには、はっきり言いましょう、理性も正義も平等も公平も公正もどうでもいいのです。一言で言えば、「面倒を起こすな」、それだけです。
 私は、30年前に博士課程に登録し、そこで哲学博士の学位を得た今の勤務大学を誇りに思いたい。でも、今回の一件で、ほんとうに失望しました。
 その深い失望感が上掲のメッセージを私に書かせました。その内容が同僚たちの留保なしの支持を受けていることは嬉しい反面、それだけ事態は深刻だということです。
 今回の案件は、時代はまさに「ポスト真理」であることの例証なのです。
 さあ、事態はどう動くでしょうか。当事者として粛々と礼儀正しく事に当たり、注意深く冷静な観察者として正確な記録を残し、さらに、この馬鹿馬鹿しい「人間喜劇」の観客として、事の成り行きを「客席」から野次を飛ばしながら楽しみたいと思っております。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

実朝歌の循環構造について ― 吉本隆明『源実朝』より



 昨日取り上げた実朝の和歌「ながめつつ思ふも悲し帰る雁行くらむ方の夕暮れの空」について、吉本隆明が『源実朝』(ちくま学芸文庫、1990年。原本、筑摩書房「日本詩人選」12、1971年)のなかで、その本歌と比較しつつ論じているところがある。
 まず、その比較検討の直前の段落で、吉本が実朝の歌と〈新古今的〉なものとの異質性を、実朝の出自と特異な政治的立場から説明している箇所を読んでみよう。

 同時代の詩人としての実朝は、〈新古今的〉なものの雰囲気にかこまれ、それに影響されているが、もし異質さを求めるとすれば、やや光線が暗いかわりに、歌はもっと直截で垂直性をもっていた。特異な二重国家である鎌倉幕府の、祭祀の統領であった実朝が、詩人としてじかに接触したのは、王朝の影響をうけているとはいっても、本質的には関東武門層の感性であった。この感性には特異な倫理感と、迷蒙さと、殺戮と忠誠とがいつも背中をあわせたような、不可解な荒っぽさがあった。実朝がこの感性によく馴染んでいたとはいいにくいが、たとえ背をむけていても、いつも接触していた感性であることにはちがいなかった。武門といつも接触しなければならなかったことからくる詩的な感性が、矛盾や嫌悪をふくめて、実朝の歌の性格をきめているとおもえる。(239頁)

 こう述べた上で、吉本は、五首の実朝歌とその本歌とを比較し、その優劣を犀利に論じている。上掲の実朝歌の本歌として挙げられているのは、昨日の記事で掲げたニ首のうちの最初の一首、藤原家隆の歌「ながめつつ思ふもさびし久方の月のみやこの明方の空」(表記は吉本の『源実朝』のそれに拠る)である。
 吉本は、上掲の実朝歌を「じぶんでじっさいにその〈景物〉を体験して詠まれた歌」として、「明るい光線は感じられないが、〈和歌〉のもつ本質的な〈律〉が強くのこされている」と評価し、昨日の記事でも引用した詞書を引いたうえで、実朝歌と家隆歌との決定的な差異を析出し、そこに、「実朝の歌を〈新古今的〉なものからわかつおおきな特徴」を見ている。

つまり体験があり、つぎにこの体験を〈和歌〉形式にまとめようとするとき、はじめて本歌取りの技法があらわれている。実朝は鋭敏なあたまで、たえずもろもろの本歌をころがしていたにちがいない。しかし本歌のほうは「ながめつつ思ふもさびし」とあっても、ほんとうに眺めていたかどうかは疑わしい。眺めた体験をもとにしなくてもつくれる歌であるし、じじつ眺めないことに〈新古今的〉なものの真髄があったからである。(242頁)

 吉本は、実朝の歌には、「じぶんの姿躰や心の状態をあまり描写したがらないで、〈事実〉をのべて歌の〈心〉とする」ところに特徴があるとし、「ながめつつ思ふもかなしかへる雁」の歌にもそれが現れていると言う。

「思ふもかなし」という強い言葉を上句にもってゆけば、主情歌にしあげられるところを、「行くらむかたの夕ぐれの空」というようにとめて、その余りがふたたび「思ふもかなし」に還るようにしている。(243頁)

 吉本が指摘するこの歌の循環構造(「夕ぐれの空」→「ながめつつ思ふもかなし」)によって、無限に深まりゆく悲しみが表現されていると言えるのではないだろうか。


 歌の循環構造によって表現されるいや増す感情に関連する記事として、2025年7月14日の記事「悲嘆いやます循環構造 ―『梁塵秘抄』より」を挙げておく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

注釈によって増幅される詩的言語の共鳴から「深い人生の悲哀」へ

 

 昨日の記事で引用した『金槐和歌集』の解説のなかで、樋口芳麻呂は、建暦三年本が実朝の自撰であり、部類・配列・詞書等すべてにわたって実朝の意向を反映していることの例証の一つとして、五七の歌の詞書を挙げている。

如月の二十日あまりのほどにやありけむ、北向きの縁に立ち出でて、夕暮の空をながめて一人をるに、雁の鳴くを聞きてよめる

 樋口は、この詞書について、「仮に別人が実朝の歌を集めて詞書を付しているなら、もっと簡潔な、味も素気もないものになったであろう」と推測している。これも証拠があってのことではないから、別の推定もありうるだろう。五七の歌とは次の一首である。

ながめつつ 思ふも悲し 帰る雁 行くらむ方の 夕暮れの空

 この歌の頭注に、樋口は可能な参考歌として、次のニ首を挙げている。

眺めつつ思ふも寂し久方の月の都の明方の空 (『新古今和歌集』秋上、藤原家隆)

 

眺むれば思ひやるべき方ぞなき春の限りの夕暮の空 (『千載集』春下、式子内親王)

 これもまた推定の域をでないわけだが、これらの歌を重ね合わせて、実朝の歌を読むとき、よりいっそう詩歌の世界の奥行と広がりが感じられ、そのなかで響く時を超えた詩的感性の共鳴と実朝固有の詩的言語の響きとを聴き取ることができるのではないだろうか。
 樋口は先の引用箇所に続けて、当該歌の詞書について、次のように自らの解釈を記している。

夕空に消えてゆく雁を独りでいつまでも眺めている後ろ姿の描写には、本人の筆致ならではの言い知れぬ寂しさ、孤独感が漂っているように思われる。

 しかし、詞書そのものからは、実朝が自分の後ろ姿を描写しているとは言えず、そう見ているのは注釈者の樋口である。つまり、樋口が実朝の後ろ姿を想像しているのであり、私には、そのような自己客体視の意図はこの詞書きからは読み取れない。むしろ、いずこにもまぎるるかたなき自己の孤独を凝視する実朝の深い哀しみを湛えた寂しい眼差しを見る思いがする。西田の言葉を使うならば、「深い人生の悲哀」をそこに感じる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

建暦三年本『金槐和歌集』について

 

 早朝、三時間ほど雷雨があり、外気温が一気に下がりました。ここ一週間以上続いた酷暑によって熱を溜め込んでしまっていた住居の建物全体からも徐々に放熱され、室内の気温が午前中に26度までさがりました。やっとのことでまともに呼吸できる状態になったといった感じです。天気予報によれば、幸い、向こう十日間は、さほど暑くはならないようです。
 ただ、昨日からの風邪の症状はすぐには改善せず、鼻水が止まりません。熱は下がりましたが、体のだるさは抜けず、食欲もありません。回復にはまだ数日かかるでしょう。でも、明日の成績判定会議には出席しなくてはなりません。

 以下は、新潮古典集成版『金槐和歌集』の校注者である樋口芳麻呂の同巻の解説「金槐和歌集―― 無垢な詩魂の遺書」から、建暦三年本『金槐和歌集』の発見に関する部分の摘録です。

 建暦三年本『金槐和歌集』の発見は、実朝の和歌の研究に画期的な進展をもたらすものであった。従来、実朝は、定家から建暦三年十一月二十三日、すなわち二十二歳の冬に『万葉集』を贈られて初めてこの書と本格的に接し、これ以降この上なく愛玩するようになったとされてきた。

 こう述べてから、樋口は、実朝の絶唱とされる十四首を挙げ、次のように続けます。

 これらの、万葉調とか独創調とかいわれる絶唱は、すべて晩年に詠まれたものと考えられてきのである。ところが建暦三年本の発見によって、実際は二十二歳の終わりまでにほとんどの歌が詠まれていることが明らかになったのであった。実朝が、その独自の芸術性を極めた時期は晩年の二十七、八歳ではなくて、むしろ二十一、二歳頃であったわけである。
 建暦三年本は、実朝の自撰であるため、部類、配列、詞書等すべてにわたって実朝の意向を反映していると思われる。

 この点に関して、歴史家の五味文彦氏は『源実朝 歌と身体からの歴史学』(角川選書、2015年)のなかで次のように疑義を呈しています。

藤原定家が巻頭などを書き、他を家人に書写させたものであり、奥書に「建暦三年十二月十八日」とあることから、この時までの歌が実朝によって集められた、と指摘されて以来、その理解が継承されてきている。奥書に建暦三年(一二一三)とあるのは、実朝が後鳥羽上皇に進呈すべくまとめた本がもとになっているとも考えられてきたが、はたしてそうだろうか。
 そもそもまだ二十歳になったばかりで家集をまとめることがあったのだろうか。実朝自身が編んだとみるにはあまりに早すぎはしまいか。
 […]
 おそらくこの本は、実朝の亡くなった後に、定家が歌の弟子である実朝から送られてきて手元にある歌を集めて整えたというのが、おおよそ考えられるところである。

 とすれば、建暦三年本にも、実朝晩年の歌が含まれている蓋然性が高くなります。しかし、これもまた、推定の域を出ず、奥書になぜ「建暦三年十二月十八日」とある理由の説明は五味書にはありません。
 今日、専門家たちの間で建暦三年本の編纂過程についてどのような理解が主流なのか知りませんし、素人の私にはこの問題に決着をつけようもありませんが、本歌取り等、技巧に関する解釈において、樋口説か五味説かどちらの立場を取るかによって、異なった見解が生じることはあれ、いずれにせよ、実朝歌の独創性についての評価には大きな違いは生じないように思われます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『金槐和歌集』の海の歌

 

 どうも鼻風邪を引いてしまったようです。朝から鼻水がとまりません。頭もぼーっとしているのですが、それが暑さのせいなのか、風邪のせいなのかも定かではありません。一週間以上続いている熱波のせいで、体が弱っているのは明らかで、午後、三時間ほど昼寝しました。それで少しはすっきりしましたが、鼻水はぜんぜん止まりません。夏風邪はこじらせるとやっかいですが、まずはとにかくもう少し気温が下がってくれないと、体を休めることさえできません。

 La mer dans la littérature japonaise ancienne (VIIIe – XVIe siècles) には、西行の歌に続いて、実朝の歌が九首採られている。『金槐和歌集』(建暦三年本)には、実朝には、この九首以外にも海が読み込まれた歌が少なくないから、全収録歌六六三首のなかに占める「海の歌」の割合は西行に比べると目立って高い。しかも、その中には実朝の代表的名歌とされる作品が多い。
 手元には、岩波の古典文学大系版(小島吉雄 校注、一九六一年)と新潮古典集成版(樋口芳麻呂 校注、一九八一年)がある。その他にも、比較的簡単に入手できる『金槐和歌集』の注釈があるかとネットで調べてみたが、意外なほど少ない。前者が『山家集』と合わせて一巻になっているのに対して、後者は『金槐和歌集』と実朝歌拾遺からなっていて、実朝の全和歌で一巻になっていて、頭注・解説・付録も充実している。以下の引用歌の表記は新潮古典集成版のそれに拠る。

箱根路を われ越え来れば 伊豆の海や 沖の小島に 波の寄る見ゆ

 

空や海 うみやそらとも えぞ分かぬ 霞も波も 立ち満ちにつつ

 

大海の 磯もとどろに 寄する波 破れて砕けて 裂けて散るかも

 海の上を舞う鳥たちもしばしば登場する。

わたのはら 八重の潮路に 飛ぶ雁の 翼の波に 秋風ぞ吹く

 

難波潟 漕ぎいづる舟の 目もはるに 霞に消えて 帰る雁がね

 

夕月夜 満つ潮あひの 潟をなみ 波にしほれて 鳴く千鳥かな

 

夜を寒み 浦の松風 吹きむせび 虫明の波に 千鳥鳴くなり

 白が特に印象深く詠まれている歌がニ首採られている。

難波潟 潮干に立てる 葦鶴の 羽しろたへに 雪は降りつつ

 

かもめゐる 沖の白洲に 降る雪の 晴れゆく空の 月のさやけさ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

詩歌の世界に遊ぶことで、魂を遠い過去へと遊行させ、心頭を冷却する ― 西行『山家集』「海辺明月歌」

 

 昨日紹介したピジョー先生の本に、西行の『山家集』から「海辺名月」と題された次の歌が採られています。

難波潟月の光にうらさえて波の面に氷をぞ敷く (秋・326)

 手元には四冊の注釈書がありますが、古い順に見ていきましょう。まず岩波の古典文学大系(1961年)から。校注者は風巻景次郎です。まず、歌の表記が上掲の表記(角川ソフィア文庫版、2018年に拠る)とは違っています。「冴えて浪のおもてに」となっています。頭注には、「うら冴えて」について、「接頭語としての「うら」に「浦」の意をかけている」とあります。ただ、これだけでは接頭辞としての「うら」の含意がわかりません。
 次に、新潮古典集成(後藤重郎 校注、1982年)はどうなっているか見てみましょう。まず、表記は上掲の通りですが、句間が一字空きになっているところが違います。頭注には、やはり「うらさえて」に註解があって、「「うら」は接頭語の「うら」と「浦」を掛ける。また「うら」と「波の面」の「おもて」は対照的用法。「さえて」は月光の「冴える」のと冷たく凍るの意の「さえる」とを掛ける」と註解されています。これで「うら」が「面」と対比的に使われていることがわかります。が、「うら」の含意ははたしてこれで尽きているでしょうか。
 集成版にはすべての歌に現代語訳が頭注に示されています。「難波潟では、冴えわたった月の光に照らされて、浦一面が輝き、海面は氷を敷いたようだ。」冴えわたる月の光に照らされた海面の冷たい輝きの光景が立ち上がってきますね。西行にしては、技巧が目立つ歌のように思われますが、どうでしょうか。
 次に、岩波文庫版(久保田淳・𠮷野朋美 校注、2013年)を見ると、脚注に、参考として、晩唐の詩人、公乗億(生没年不詳)の漢詩の一部「秦甸之一千余里 凜々氷鋪」が『和漢朗詠集』(秋・十五夜)から引かれています(説明はなし)。
 この漢詩一行について、角川ソフィア文庫版の『和漢朗詠集』(2013年)を参照しました。読み下しは、「秦甸の一千余里 凜々として氷鋪き」となっており、後注を見てみると、「(十五夜の明月に照らされて)長安の都城の周囲一千余里は、冷え冷えとして一面に氷を敷き詰めたようだ」と訳されており、「秦甸」は、「長安は秦の故地であったので、ここでは「秦」は長安を指す。「甸」は一千里四方を指す」と説明されています。
 最後に、角川ソフィア文庫版(宇津木信行 校注、2018年)を見ましょう。「うらさえて」の脚注に、「浦が心のうちまで凍るように冴えて。「浦」に「うら(心・裏)」を掛けて「面」に対照」とあります。「うら」が「心」を意味するという他の注釈にはなかった情報が得られました。この「うら」の用法は、万葉集から見られ、「うら」単独で「心」を意味することはありませんが、逆に、形容詞や名詞に接頭語として付いて「心」という含みを持たせます。例えば、「うら悲し」「うら寂し」などを例として挙げることができます。動詞に付くこともあり、「うらさぶ」がその例です。この動詞が使われた万葉歌についてはこの記事「私撰万葉秀歌(6) うらさぶる心さまねし ― 天地有情の世界に佇みながら」を参照してください。
 角川ソフィア文庫版にも、やはり参考として、『和漢朗詠集』から上掲句が引かれています。
 さて、これだけ注釈を巡る「散歩」をして、再び西行の上掲歌に立ち戻ると、最初に何の予備知識もなしに読んだときより、歌により豊かなニュアンスとより広大な時空の広がりと歴史的な奥行が感じられませんか。
 この歌は、たんなる叙景歌ではもちろんなく、掛詞を巧みに使った技巧の面白みに尽きる歌でもありません。月の光を見つめる歌人の心も冴えわたり、波の面に氷のように冷たく輝く光はその心に広がっているのです。そして、西行が実際に『和漢朗詠集』の上掲句を念頭に置いてこの歌を詠んだかどうかはともかく、広大な一面が月の光に照らされている光景を敷き詰められた氷に喩えるこの叙景法は唐詩の伝統に連なっているのです。それだけではなく、公乗億の「八月十五夜賦」が、地上の静的な光景であるの対して、西行の歌は、絶えず揺れ動く波の光を氷に喩えることで動的な光景を現出させています。しかも、秋の歌に「氷」という喩を用いることで、季節感に重層性を与えてもいます。

 現在、室内の気温は33,7度ですが、この記事を書いている間はその暑さをほとんど忘れることができました。少しの間でしたが、詩歌の世界に遊ぶことで、魂を遠い過去へと遊行させ、心頭を冷却することができました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

海から遠く離れたストラスブールで、日本古典文学における「海」の旅に出ましょう!

 

 誰もそんなこと頼んでないのですが、熱波の襲来が一日前倒しになったようで、本日午後、ストラスブールでも40度に到達するようです。今、13時過ぎですが、室内の気温が32度に達しております。どこまで上昇するのかわかりませんが、「来るなら来てみろ!」と虚勢を張る元気もなく、ぐったりしております。
 熱波だけでも十分すぎるくらい過酷な試練なのに、昨日読み始めた論文を読み進むにしたがって、テーマは悪くないと期待していたのに、杜撰な論述というか支離滅裂な御託が次々に繰り出されてきて、「なんでこんな代物を読んで、しかも講評しなくてはならないのか」と、ふつふつと身内に湧いてくるもって行き場のない怒りで頭が加熱するのを抑えるためにエネルギーを消耗するという、これはもう犯罪的な不条理であります。
 ご承知の通り(かどうかわかりませんが)、ストラスブールは海から遠く離れております。一番近い北海方面でも直線距離で400キロ以上あります。先日、この話題でおしゃべりしていたとき、いったいフランスで最後に海を見たのはいつだろうと思い出そうとしたのですが、うまく思い出せなかったのです。それくらい遠い過去に遡らなくてはならないということです。おそらく2008年が最後です。
 もっとも、日本に帰ったときにはときどき海を見ており、2024年の正月には湘南の海岸沿いにジョギングしたのを覚えています。
 昨年、フランスの日本古典文学研究の権威の一人であるジャックリーヌ・ピジョー先生が La mer dans la littérature japonaise ancienne (VIIIe – XVIe siècles) という、古代から中世末までの海にまつわる日本文学作品の素敵なアンソロジーを出版されました。 
 日本は四方海に囲まれた島国であるにもかかわらず、そしてその文学史は千数百年に亘るというのに、偉大な海洋文学を生み出しませんでした。しかし、そのことは海にまつわる文学作品が少ないということではありません。
 本書は、一見矛盾しているように見える事実を出発点としています。すなわち、日本の古典文学は、その多様な形態にもかかわらず、『オデュッセイア』や『ウズ・ルジアデス』のように、そのすべてが海に捧げられた「傑作」を生み出していないということです。これは、島国である日本にとっては驚くべきことではないでしょうか。
 しかし、海、とりわけ内海は、古代および中世日本の文学的・詩的想像世界から決して欠けていたわけではありません。このアンソロジーには、八世紀から十六世紀にかけての、多様なジャンル(神話、物語、詩、旅行記、小説、叙事詩、奇談や教訓的な逸話、そして能)に属する文学作品が収録されており、それらは、場所や人々への観察に基づいているものもあれば、豊かな想像力に根ざしているものもあります。
 海から遠く離れた内陸のストラスブールで、このアンソロジーを紐解き、二重に彼方の「遠き海」に思いを馳せることで、室内まで怒涛のように襲ってくる熱波に辛うじて耐えたいと思います。
 この世の無常を詠った万葉歌として著名な沙弥満誓の一首「世間を何に譬へむ朝開き漕ぎ去にし船の跡なきごとし」(巻第三・351)に、ピジョー先生は次のような脚注を付しています。

On est tenté de rapprocher ce poème d’une notation de Proust: « [La mer] ne porte pas comme la terre les traces des travaux des hommes et de la vie humaine. Rien n’y demeure, rien n’y passe qu’en fuyant, et des barques qui la traversent, combien le sillage est vite évanoui ! » (Les Plaisirs et les Jours).

 

この歌を、プルーストの次の記述と結びつけたくなる。「[海は]陸のように、人間の営みや生活の痕跡を宿していない。そこには何も残らず、通り過ぎるものもすべて逃げるように去っていく。そして、海を渡る小舟の航跡は、なんと瞬く間に消え去ってしまうことか!」(『楽しみと日々』)。

 さあ、これから日本古典文学の「海」の旅に出かけましょう!

 

 

 

 

 

 

 

炎暑からの避難所として古典の世界にしばし遊ぶ

 

 7月はじめの口頭審査のために読んでおかなくてはならないもう一つの修士論文を夜明け前に読み始める。私自身関心をもっているテーマを扱った論文なので、昨日読み終えた論文よりは前向きな姿勢で読める。昼過ぎまでに3分の1あまり読んだところで切り上げる。
 午後1時半現在の室内気温31,2度。昨日より暑い。炎熱に焼かれるかの如し。水風呂以外に何か暑さ対策はないかと考え、東南東向きのベランダに打ち水をしてみる。が、文字通り、焼け石に水。あっという間に蒸発してしまい、少しも涼しくならない。
 天気予報では、午後3時から6時まで、外気温は38度に達するとのこと。明日の予想最高気温が39度。土曜日が40度で、これが今回の熱波の頂点のようである。そのとおりだとしてあとまる2日はこの猛暑に耐えなくてはならない。
 日本では今年から気温が40度以上に達した日を「酷暑日」と呼ぶことになったと知ったとき、「ふーん、そうなんだ。そんな命名したって、涼しくはならないし、かえって心理的に暑さに打ちのめされるだけじゃないの」とか、まったく他人事として呑気に構えていましたが、まさかフランスのほうが先に「酷暑日」の洗礼を受けるとは。油断していました。
 今日読んでいた論文の引用文の中に「宇内」という漢語が使われていた。「うだい」と訓む。「宇宙、天下、世界、海内」の意。陶淵明の「帰去来辞」に「寓形宇内復幾時」(形ヲ宇内ニ寓スルコト復タ幾時ゾ)という用例がある。吉川幸次郎『陶淵明伝』(ちくま学芸文庫、2008年)は、この一行とその次行「曷不委心任去留」(曷ンゾ心ヲ委ネテ去リ留マルニ任セザルヤ)とを合わせて、次のように日本語に翻案している。

人間も、木のように、泉にように、自然に生きようではないか。肉体を宇宙のなかに寄寓させているのが、人間の一生、長い一生もあれば、短い一生もあるが、それは荘子がよくいうように、相対的な差異にすぎない。それがどれだけの時間と、もはやあげつらうまい。心を自然にゆだね、たいらかにして、この世を去るべきときにこの世を去り、この世に留まるべきあいだは留まろうではないか。

 古典の世界のなかで魂を千年数百年以上の彼方へとしばし遊行させるのが炎暑の凌ぎ方として私には合っているようである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

死に至りかねない酷暑に襲われているフランスで虫の息

 

 午後1時現在、室内の気温が30度突破しました。これからまだ数時間気温は上昇し続ける模様。メディアによれば、昨日、2003年の歴史的猛暑の記録が塗り替えられたとのこと。今日はさらに気温が上昇するとかメテオが言っているけど、そんな記録更新、いらない。
 それにまだ6月ですよ。でも、まあ、さすがに日本と違って、夏中ずっと暑さが続くことはないだろうけれど。って、これ、希望的観測です。
 一般家庭にはエアコンがないのが普通だから、とにかく室内にも暑さからの逃げ場がない。ほっておくと、どんどん体温が上昇してしまう。水分補給はもちろんこまめにしているけれども、湿度も30%台だから、補給が追いつかないくらい。汗もほとんどかかない。汗となって流れる前に蒸発している感じ。
 このような非常事態にもかかわらず、早朝、修士論文一本読了。感想ですか? 「読むのに使った時間を返して!」、以上。
 午前中、自転車で片道10分ほどかかるスーパーで開店早々に買い物を済ませました。ところが、帰宅して、買ってきた要冷蔵食品を冷蔵庫にしまっていて、買ったはずの5リットルの箱入りの白ワインがないことに気づいたのです。レジに忘れてきたのです。仕方なしにまた店に取りに行きました。あんな大きな箱を忘れてくるなんて、これ、暑さのせい? 
 幸い、店員さんがレジ脇に確保しておいてくれて、レシートを見せるとすぐに箱を渡してくれました。今日の夕食時に、この白ワインをキンキンに冷やして飲むのです。 
 室内に侵入してくる暑さへの対策として、昨日もそうしたけれど、今日もあとで水風呂に入る。それくらいしか思いつかない。
 ひとつだけいいことは、洗濯物があっというまに乾くこと。厚地のバスタオルでも、外に干せば1時間弱でカラッカラに乾く。
 昨日の記事で、リラックスした姿勢での自由気ままな読書なんて呑気なこと書いたけど、この暑さでは無理。ぜんぜん内容が頭に入ってこない。今はただ YouTube で長時間 BGM のなかからひたすら軽快なボサノバを選んで、ボーっと聞き流しているだけ。
 時間がもったいないなあ。水風呂に浸かりながら、Kindleリーダー使って読書するか。