
古語のすべてが美しいわけでも優雅なわけでもない。
「老人」は、今日では一般に「ろうじん」としか訓まないが、古語では、そのように漢字表記されていても、「おいひと」あるいは「おいびと」と訓むこともある。万葉集には、原文が「老人」と表記され、「おいひと」と清音で訓まれている例が四例(一〇三四、二五八二、三七九一、四〇九四)ある。題詞に見られる人名に「老人」とあるときは「おきな」と訓む。
「おいひと」と訓むといっても、基本的な意味においては今日の「老人」と違いはなく、特段の含意もない。
徒然草には、「おいびと」への痛烈な一撃がある。
大方、聞き悪く、見苦しき事、老人の若き人に交はりて、興有らんと物言ひ居たる。
(いったい、聞いて不愉快、見て不愉快なことは、たとえば、老人が若い人たちに交じって、皆を面白がらせようと、いつまでもしゃべり続けていること。)
兼好のこの辛辣な見方に従うと、教室で若き学生たちに受け狙いの冗談を連発して、すべりまくっている老教師(私は違いますよ、念のため)もまた、「聞き悪く、見苦しき事」の典型例のひとつであるという帰結が導かれることになる。
『枕草子』には、「おいびと」という言葉は出てこないが、概して老人には手厳しい。「人に侮らるる物」の段で、「年老いたる翁」が挙げられている。「似気無き物」の段では、「老いたる者の、腹高くて、喘ぎ歩く。」「老いたる男の、寝惑ひたる。」 など、さんざんである。今日であれば、清少納言、モラハラで訴えられてしまうかも知れない。
「無げの老い人」は「なげのおいびと」と訓む。『浜松中納言物語』(十一世紀中頃)に一例有り。その意は、「いてもいなくても同じような老人。ないがしろにされる老人。いやしい老人。」 これ、あんまりじゃありませんか。もっとも、同作品では、「なげのおい人とも見えず」と、そんな風には見えないという文脈で使われており、年寄りを侮蔑しているわけではない。
かくのごとく、中古以降、古語としては踏んだり蹴ったりの扱いを受けている「おいびと」であるが、それらの過去の忌まわしき記憶を洗い流して、しれっと現代語として復活させてみてもいいのではないかと余は密かに愚考しておる。
「お年寄り」という、いたわっているようでいて、内心はどこか小馬鹿にしているのじゃないかと勘ぐれなくもない(ちょっと被害妄想気味かな)丁寧表現よりも、「高齢者」という血の通わない行政用語よりも、「おいびと」という大和言葉のほうが耳に優しく響きませんか。
そこで、今日の記事の結びとして、パロディの駄句を恥ずかしげもなくご披露いたす。
おいびとと我名よばれん蝉しぐれ
梅尾木瓜翁『老いの小文』より















