内的自己対話―川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。

2023-02-01から1ヶ月間の記事一覧

みんなのエックハルトはだれのエックハルトでもない ― ドイツ語全説教新仏訳刊行についての捻くれた感想

昨年、エックハルトのドイツ語全説教集の新仏訳 Intégrale des 180 sermons が Almora 社から出版された。 この版には、そのタイトルが示す通り、一八〇の説教が収められている。Quint-Steer 中高ドイツ語校訂版には一一七しか収録されていない。その中にさ…

「幸福なひとは、だれもが神です」― ボエティウス『哲学のなぐさめ』より

『神の慰めの書』の仏訳が手元には六つある。年代順に古い方から列挙する。 Traités et sermons, traduits de l’allemand par F. A et J. M. avec une introduction par M. de Gandillac, Aubier, 1942. ミッシェル・アンリが『現出の本質』『受肉』『キリス…

思想の息吹を伝える翻訳の格調について ― 相原信作訳『神の慰めの書』のこと

解釈の前提として本文の確定が重要な作業になる古典の場合、何世代にも亘る研究の積み重ねによって旧版が新版によって取って代わられ、学問的研究の基礎としては新版に拠ることが原則となる場合は少なくない。 異端判決後数世紀に亘ってほとんど埋もれていた…

「神の中なる我が苦悩、それは神そのものが我が苦悩である」― マイスター・エックハルト『神の慰めの書』から遠く離れて

「焼きが回る」という表現を『新明解国語辞典』で引いてみると、「焼き」の項の㋥「刀を熱して水に入れ、冷やして堅くすること」の用例として、「―が回る」が挙げられており、その第一の意味が「必要以上に熱が加えられて、かえって切れ味が鈍る」、第二の意…

「自分と出会う」― 運命愛とニヒリズムの克服、そして「自分との新しい出会いの始まり」

朝日新聞の「こころ」のページに1990年代連載されていた「自分と出会う」というコラムには、井深大、田辺聖子、沢村貞子、谷川俊太郎、阿部謹也、加賀乙彦、山田洋次、大江健三郎など、各界の著名人たちのエッセイが寄せられていたようで、その一部が『自分…

海外での「京都学派」という呼称の使われ方について ― 源了圓(1920-2020)の場合

先日、修士論文を指導している学生から、論文の進捗状況を知らせるメールと序論の草稿が送られてきた。その中に「京都学派の一人〇〇によれば」という一文があり、〇〇のところには聞いたこともない名前がアルファベット表記で(草稿自体フランス語だから、…

色彩豊かで典雅な音の絵巻物 ―アレクサンドル・タローによるラモーとクープラン

いくら好きな曲でも、その曲の好きではない演奏(あるいは解釈)はある。その曲が好きであればあるほど、お気に入りの演奏への愛着も深く、それに反した演奏には拒絶反応を示してしまう。そこまで行かずとも、気に入らない演奏をわざわざ聴いてみようとは思…

ピエール・フルニエ&フリードリッヒ・グルダ演奏『ベートーヴェン・チェロ・ソナタ全集・変奏曲集』― 音楽を聴く喜びで心が満たされる

昨日の記事で話題にしたようなわけで音楽鑑賞をより良い音質環境で再開することができたので、「私の好きな曲」(このカテゴリーの記事の中には、むしろ「私の好きな演奏」と題した方が適切な記事も含まれます)について、この機会に聴き直した曲を中心に記…

モーツアルト『ヴァイオリン・ソナタ集』― ヒラリー・ハーン&ナタリー・シューの仲の良い演奏

このブロクのカテゴリーの中の投稿件数のトップ3は「哲学」「雑感」「読游摘録」で、これだけで全体の八割超を占める。他方、久しくご無沙汰してしまっているカテゴリーもいくつかあるが、「私の好きな曲」もその一つだ。 ストリーミングで音楽を聞き流すよ…

本人が知らぬ間に密かに準備されていた「予期せぬ」出逢い

著者について何の予備知識なしにある文章を読んでいきなり心惹かれるということは誰にもあることだと思う。私にとって昨日の記事で話題にしたマリー=マドレーヌ・ダヴィの場合がそうだった。それはまったく予期せぬ出逢いであり、発見である。かねてより彼…

第一次大戦前のフランスのある「おてんば娘」の夢見るように幸福な夏のヴァカンスの想い出

昨日の記事で言及した Marie-Madeleine Davy (1903-1998) のことを彼女のベルジャーエフ評伝 Nicolas Berdiaev ou la Révolution de l’Esprit を読むまではまったく知らなかった。日本語にはシモーヌ・ヴェイユ論が一冊訳されている。ダヴィはヴェイユとほぼ…

ドイツとフランスを分かつもの ― 神と神性の区別をめぐって

先日から何度かニコライ・ベルジャーエフのことをこのブログで話題にしている。ベルジャーエフの宗教哲学がドイツ神秘主義の思想的気圏と親和的であることは、その著作のいくつかによって確認できる。 例えば、ヤコブ・ベーメ研究(1946年)では、以下のよう…

「神秘主義」という閉ざされた戸の前に立ち続ける

もういつのことか正確には思い出せないが、ドイツ神秘主義に関心を持つようになったのは、西田幾多郎の著作を真剣に読み始めてまもなくのことであったから、もう四十年近く前のことである。特にマイスター・エックハルトには強く惹かれ、当時発売されたばか…

ヨーロッパを内側から揺るがす「異物」としてのロシア

岩波書店の新日本古典文学大系39巻『方丈記 徒然草』で『方丈記』の注解を担当された佐竹昭広氏がその序文でニコライ・ベルジャーエフ(1874‐1948)の葛藤型についての分類に言及していることを一昨日12日の記事で話題にした。 そのベルジャーエフの諸著作の…

鴨長明『無名抄』― 興趣尽きない和歌随筆

現代では、鴨長明は『方丈記』の作者として著名であるが、本人が生きていた時代には、歌人としてよく知られ、管絃にも巧みな当代一流の文化人の一人であった。その長明が書き遺した歌学書・歌論書が『無名抄』である。昨日の記事でも言及したが、執筆時期に…

『発心集』でも発揮される災害描写の筆の冴え

『発心集』(角川ソフィア文庫、2014年)は上下二巻からなり、一〇六の仏教説話が集められている。成立年は正確にはわからず、一二一二年成立とほぼ確定されている『方丈記』の前なのか後なのかもわからない。長明の没年は一二一六年、ほぼ六十二歳で亡くな…

鴨長明に対してニコライ・ベルジャーエフによる葛藤型一と二の区別を当てはめることができるか

佐竹昭広氏は、そのお弟子さんの一人によると、大学の授業でしばしば文学研究にとっての哲学の素養の必要性を強調されていたそうである。確かに、氏の著作には骨太な哲学的思索がその背景にあることが読み取れる箇所が少なくない。哲学的考察が前面に打ち出…

「ユク河」考 ―『方丈記』はなぜ水害については語っていないのか

昨日の記事で言及した『発心集』(角川ソフィア文庫、二〇一四年)の浅見和彦氏による解説を読んでいて、ふと気になったことがあるのでここに記しておく。 浅見氏は同書の解説の中で、「地・水・火・風の四大種による災害のうち、長明は地・火・風の三つは『…

芋蔓式読書を続けて芋蔓に絡み取られて身動きが取れなくなって溜息をつく。それでも心の観察は続ける。

私の読書の仕方はしばしば芋蔓式です。方法とは言えません。ある本のある一語あるいは一文が気になって、それについて調べるために別の本を幾冊か読み、それらの本に参考文献として挙げられている論文や書籍へとさらに読書の範囲が広がり、その広がりの中で…

パッとしない心の観察記録でも書き続けることの私にとっての意味

ちょっと、ボソッと独り言のようなツマラナイ話です。 水泳を二〇〇九年八月から二〇二一年六月まで十二年近く続けていたとき、日によっては、ちょっと疲れていたり、気分的に落ち込んでいたりして、プールに行くのが億劫になったこともありましたが、それで…

日仏合同ゼミを終えて ― 増殖する日仏ネットワークの起点の一つ

一昨日月曜日は、午前に一つ、午後に二つの日仏合同チームによる発表があり、それぞれの発表後に質疑応答が行われた。発表はそれぞれに力作ではあったが、いずれも取り上げた問題が大きすぎたようで、その大きさに力負けしているのは否めなかった。質疑応答…

人間の自然本性としてのミメーシス(模倣)

昨日の記事で言及したのとは別のもう一つのグループは「ミメーシス」概念を中心的に取り上げた。中井正一自身、『美学入門』で数回ミメーシス(中井は「ミメジス」と表記)に言及しているだけでなく、他の著作でも度々言及しているから、そのことだけからで…

エドマンド・バーク『崇高と美の起源』を当時の政治・社会・経済的文脈の中で読むことの重要性に気づかされる

今日明日と法政大学哲学科学部生十九名とストラスブール大学日本学科修士一年の九名との合同ゼミがストラスブール大学において行われる。このゼミはすでに十数年の歴史をもつ。私が日本学科側の責任者として関わり始めたのは赴任した2014/15年度からのことで…

実を結んだ一通のサポート・レター

手前味噌で恐縮ですが、先週火曜日、ちょっと嬉しいことがありました。 順を追って説明します(って、誰もアンタの話になんか興味ないと思うけど ― まあ、そう言わずに。三分だけお時間いただけますか ― それパクリじゃん)。 昨日の記事の話題とも関連があ…

「育ち」ということについて ― 老いの繰り言、そして若き学生たちへの願い

まず、愚痴です。聴いてくださいますか。 二月一日、所属する学部で私が数年来関わっている日本への留学希望者の書類審査の来年度(二〇二三/二四年度)に関する結果が国際交流課から当該学生たちに一斉に通知されました。その結果に対する応募学生たちから…

「死は清き月夜よりも美しい」― 西田幾多郎の娘西田静子宛の手紙より

毎年二月、「日本の文明と文化」の授業の課題の一つとして、手書きの手紙を学生たちに書いてもらいます。この課題をはじめて出したのは二〇二〇年二月、そのときは思いもよりませんでしたが、コロナ禍による最初のロックダウンのひと月前のことでした。その…

転倒顛末(その二)

水木の二日間、ジョギングを休み、外出はそれぞれ一コマずつの授業のためだけに大学まで自転車で往復しただけでした。自転車で走っているときにはまったく痛みを感じません。自宅では主に机に向かい、できるだけ体を動かさないようにしました。ある特定の上…

転倒顛末(その一)

もう少し経過を見てから最終的なまとめをしたいと思っていることが一つあります。 事の発端は、先月二十四日、その日の午後、ジョギングをしていたときのことでした。走っていて、あまり調子が良くなく、どこか痛むというわけではなかったのですが、脚がすご…