内的自己対話―川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。

2022-06-01から1ヶ月間の記事一覧

日々の哲学のかたち(24)― アリストテレス『ニコマコス倫理学』のフィリア論 ④ 現代はフィリア喪失の時代なのか

『ニコマコス倫理学』第八巻の今読んでいる箇所は、アリストテレス自身の考えを述べているわけではなく、当時広く受け入れられていたフィリアについての考え方の紹介です。当時のギリシア人たちがフィリアをどのように考えていたかがわかって興味深いですね…

日々の哲学のかたち(23)― アリストテレス『ニコマコス倫理学』のフィリア論 ③ フィリアの恒常的再生可能性

すぐには得心できなくても、どうにも納得できないところがあっても、とにかくまず読んでみましょう。そういう辛抱が必ず報いられるのが古典というものだと私は思っています。古典にこだわっていると、だから、たくさんの本は読めません。それでいいではない…

日々の哲学のかたち(22)― アリストテレス『ニコマコス倫理学』日本語訳の水準の高さについて

私ごときが付けるつまらぬ感想は蛇足以下の代物ですし、優れた日本語訳とそれに付された訳注とを読むほうがいいに決まっているので、明日以降何日か日本語訳を掲載するにとどめ、それを読んでご興味を持たれた方は、続きをご自身でお読みになってください。…

日々の哲学のかたち(21)― アリストテレス『ニコマコス倫理学』のフィリア論 ② フィリアがなければだれも生きてゆこうと思えない

それでは第八巻「愛について」を読んでいきましょう。光文社古典新訳文庫版では、愛に「フィリア」とルビがふられていますが、それは省略します。 冒頭で、「愛は徳(アレテー)のひとつであるか、徳を伴うものであり、またさらには人生にとってとりわけ必要…

日々の哲学のかたち(20)― アリストテレス『ニコマコス倫理学』のフィリア論 ① 愛の広がり

パヴィの『精神的修練としての哲学』第六章は、「他者から学ぶ」ことを主題としていますが、その二つの主軸は共同体と友情です。共同体については昨日の記事で少し触れましたので、今日から何回かにわたって、友情をめぐるテキストを読んでいきましょう。共…

日々の哲学のかたち(19)― 他者とともに学ぶ精神的修練としての哲学

ピエール・アドの語る exercices spirituels をずっと訳さずに原語表記してきましたが、昨日紹介した『ウィトゲンシュタインと言語の限界』の中でそれに「精神の修練」あるいは「精神的修練」という訳があてられており、おそらくそれは昨年末刊行された『生…

日々の哲学のかたち(18)― 不要な独断的判断を自らといっしょに押し流す「下剤」としての哲学言語

講談社選書メチエの今月の新刊、ピエール・アド『ウィトゲンシュタインと言語の限界』(合田正人訳・古田徹也解説)の古田の優れた解説を読んでいたら、古代懐疑主義者の一人、セクストス・エンペイリコスの『学者たちへの論駁』からの引用があり、それにと…

日々の哲学のかたち(17)― 「専門家はみな猫背である」 ニーチェ『愉しい学問』より

ESP の第五章 « Apprendre l’usage du corps » から紹介する二つ目のテキストはニーチェの『愉しい学問』(『喜ばしき知恵』)の断章366です。パヴィの本にはこの断章の全文が引用されているのですが、このブログの記事の中に引くには全文はちょっと長すぎる…

日々の哲学のかたち(16)― 精神(霊)に命令するのは誰か

Exercices spirituels を日本語に訳すことを避けてきた理由の一つは、 spirituel に「精神的」あるいは「心的」をあてることによって、この exercices における身体的側面が軽視されかねないからです。もっとも、これは原語自体が孕んでいる問題ですから、訳…

日々の哲学のかたち(15)― 走り、書く〈私〉の可塑性

昨年四月まで十一年あまり水泳を続けていたことについて、その継続を可能にしていた理由はなんだったのだろうかと今あらためて自問するとき、その一つは、体は心よりも正直だ、と言うことができます。言い換えると、体への働きかけは、いや、もっと単純に言…

日々の哲学のかたち(14)― 大理石の塊を受け取り、それを自分で像に刻む、ウイリアム・ジェームズ『プラグマティズム』より

自己形成過程を具体的に形象化するために、何らかの天与のものから自己像を彫刻のように徐々に刻み出していくという暗喩は、古代の哲学者ばかりでなく近現代の哲学者たちによっても用いられています。二十世紀の哲学者たちのなかではウイリアム・ジェームズ…

日々の哲学のかたち(13)― 「必要なことはただ一つだけである」

『愉しい学問』断章290の原タイトルは、Eins ist not となっていて、新約聖書ルカによる福音書第十章第四二節のイエスの言葉、「しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」から取られています。ニー…

日々の哲学のかたち(12) ― 自分の性格に様式をもたせること ニーチェ『愉しい学問』より

さて、パヴィのアンソロジー ESP に選ばれた文章の紹介を続けましょう。 今日紹介するのは、ニーチェの『愉しい学問』です。このタイトルをご覧になって怪訝に思われた方もいらっしゃるかも知れません。というのも、最初の日本語訳である生田長江訳のタイト…

体軽快によく走る、筆もまたよく走る

この五日間、毎日十四キロ走りました。タイムを徐々に上げるべく意識してピッチを上げました。結果、今日、私的最高記録が出ました。一時間十六分で走り切りました。平均時速十一キロということです。今日は他にもう一つ個人記録を更新しました。連続ジョギ…

心の奥底で燃え続ける学問への情熱の火種 ― 福永光司『古代中国の実存主義』にふれて

講談社学術文庫の今月の新刊の一冊、中島隆博『荘子の哲学』(原本は『『荘子』――鶏となって時を告げよ』岩波書店 2009年)をあちらこちら拾い読みしていて、参考文献ガイドのなかに挙げられている福永光司『荘子 古代中国の実存主義』(中公新書 1964年)に…

子供のときから彫りつづけた内なる彫像 ― フランソワ・ジャコブ自伝より

昨日の記事でまるごと引用したプロティノス「美について」(ポルフュリオスがプロティノスの死後編纂した『エンネアデス』では第一巻第六論文、執筆年代順では第一論文)の第九章のなかに描き出された己の内なる魂の彫像という美しい隠喩は、フランソワ・ジ…

日々の哲学のかたち(11)― 内なる彫像を刻み出す

パヴィの ESP の第三章に集められた古今の名著からの抜粋の中からもう一つご紹介しましょう。プロティノスの『エンネアデス』の中でも最もよく知られた論文の一つ「美について」の第九章です。ちょっと長いですが章の全文引きます。講談社学術文庫『プロティ…

日々の哲学のかたち(10)― 「一つ、ただ一つ、哲学である」マルクス・アウレリウス『自省録』より

マルクス・アウレリウス『自省録』からは第二巻一七節がまるごと取られています。余計な味付けや無駄な解説なしに、テキストそのものをとくと味読することにしましょう。テキストそのものと今言いましたが、読むのはもちろん邦訳で、ギリシア語原文ではあり…

日々の哲学のかたち(9)― 自己の(魂の)可塑性

ESP の第四章は « Apprendre le mode de vie philosophique » と題されています。「哲学的な生き方を学ぶ」ということです。前章が「離接」を主題としていたのに対して、本章では、さらに一歩進めて、哲学的な生き方とはどのような生き方であり、それを身に…

日々の哲学のかたち(8)― 「離接する」

一週間ほど遠ざかってしまいましたが、グザビエ・パヴィの Exercices spirituels philosophiques (=ESP) に立ち戻りましょう。第三章は « Apprendre à se détacher » と題されています。代名動詞 se détacher は「離れる」という意味ですが、前置詞 de を伴…

ショーペンハウアーの刃―「著述と文体について」より

ショーペンハウアーの『余録と補遺』に収められている一篇「著述と文体について」を読んでいて、その数々の鋭い洞察が耳に痛いどころか、研ぎ澄まされた刃のごとく心に突き刺さった。ところが、それで落ち込んでしまったかというと、そうでもなく、むしろ不…

ニーチェからモンテーニュへ、あるいは「最後の人間」から「最初の人間」へ

昨日の記事に引用したマックス・ヴェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の一節で使われている「末人」という言葉は、ニーチェの『ツァラトゥストラ』の前口上の中の「末人」についての一節が念頭に置かれている。このことは諸家の指摘す…

「化石化した燃料の最後の一片が燃えつきるまで」― マックス・ヴェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』より

昨日の記事で話題にした環境思想のアンソロジー La pensée écologique の巻頭にエピグラフとして引用されているのは、マックス・ヴェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の終わりの方にある有名な一節である。近代社会において職業の専門…

田中正造「直訴状」― 仏語で唯一の環境思想のアンソロジーに収められた唯一の日本語のテキスト

先月末に注文した中古本が今日届いた。La pensée écologique. Une anthologie, PUF, 2014 である。 Dominique Bourg と Augustin Fragnière による編集。前者はスイスのローザンヌ大学の教授で、環境思想・環境倫理を専門とする。後者は同大学の助手で博士論…

ただただ美しい文章に心洗われる幸い ― 山本安英『鶴によせる日々』より

昨日話題にした中井正一『美学入門』(中公文庫 2010年)第二部「美学の歴史」「四 時間論の中に解体された感情」の中の「永遠の一瞬」と題された節に、山本安英の『鶴によせる日々より』からの引用があります(137-138頁)。それはもうこの上なく美しい文…

「美しいこととは何であるか」― 中井正一『美学入門』(中公文庫 2010年)より

来年度の日仏合同ゼミの課題図書選択は迷いに迷った。その挙げ句、今日ようやく、最終的な決断をした。中井正一『美学入門』(中公文庫 2010年 初版 1951年 河出書房)にした。ただ、これはこちらからの提案に過ぎないので、もし先方が難色を示せば、変更せ…

日々の哲学のかたち(7)― 自己自身を構築する

ESP の第一章には、プラトンの後に、古代代表として、エピクロス、セネカ、エピクテートス、プルタルコス、マルクス・アウレリウス、古典・近世代表(中世は飛ばされている)としてはスピノザ一人、近現代代表はエマーソン、ソーロー、ヒラリー・パットナム…

日々の哲学のかたち(6)―「美しい希望をいだいて晴れ晴れと心安らかに去って行けるならば」 プラトン『国家』より

グザビエ・パヴィの Exercices spirituels philosophique (PUF, 2022) の序論の前半を三回に渡ってかいつまんで紹介してきました。その後半は哲学史的な記述が大半を占め、特別に注目に値する記述もないと私には思われるので、そこは飛ばしてアンソロジーの…

今日からブログ十年目 ― ジョギングとブログの相補的関係から生まれる動態的思考、あるいは「ジョギング・シンキング」

今日六月二日からブログ十年目に入ります。先月はただ引用だけという「ズル」もしました(皮肉なことに、その日に「いいね」を普段以上にいただきました)が、とにかく毎日投稿という原則は辛うじて丸九年間守り通しました。 凝り性というほどではないと自分…

日々の哲学のかたち(5)― 人を形作る

Exercices spirituels は、それが実効性をもつためには一人の人の全面的かつ持続的な修練を必要とする。 « exercice » という言葉は、ラテン語の exercitium から来ており、それは「誰かを何かに向けて訓練する」あるいは「自らを養成する」という意味をもっ…