内的自己対話―川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。

詩歌逍遥

「ほのかたらひし空ぞ忘れぬ」― 式子内親王の絶唱の一首、諸家の鑑賞(下)

昨日の記事の冒頭に掲げた式子内親王の一首には「いつきの昔を思ひ出でて」という詞書が付いている。田渕句美子氏の『異端の皇女と女房歌人』の同歌の鑑賞はまずそのことに触れる。 詞書にある通り、式子内親王が、斎院であった昔を回想して詠んだ歌である。…

「ほのかたらひし空ぞ忘れぬ」― 式子内親王の絶唱の一首、諸家の鑑賞(上)

ほととぎすその神山の旅枕ほのかたらひし空ぞ忘れぬ (新古今集 雑上 一四八六) 式子内親王の絶唱の一首とすることで諸家が一致している歌である。ただ、それぞれその讃えかたにおいて微妙に異なる。そこが面白く、それだけ学ぶところも多い。 最初に掲げる…

式子内親王歌における「うたたね」と「仮寝」の対蹠性

夢のうちも移ろふ花に風吹きてしづ心なき春のうたたね (続古今集 春下 一四七)。 昨日の記事でも引用した式子内親王の上掲歌(今日の記事の写真は、この一首が載っている続古今集の頁。国文学研究資料館の国書データベースより)についての奥野陽子氏の『…

実朝歌の循環構造について ― 吉本隆明『源実朝』より

昨日取り上げた実朝の和歌「ながめつつ思ふも悲し帰る雁行くらむ方の夕暮れの空」について、吉本隆明が『源実朝』(ちくま学芸文庫、1990年。原本、筑摩書房「日本詩人選」12、1971年)のなかで、その本歌と比較しつつ論じているところがある。 まず、その比…

注釈によって増幅される詩的言語の共鳴から「深い人生の悲哀」へ

昨日の記事で引用した『金槐和歌集』の解説のなかで、樋口芳麻呂は、建暦三年本が実朝の自撰であり、部類・配列・詞書等すべてにわたって実朝の意向を反映していることの例証の一つとして、五七の歌の詞書を挙げている。 如月の二十日あまりのほどにやありけ…

『金槐和歌集』の海の歌

どうも鼻風邪を引いてしまったようです。朝から鼻水がとまりません。頭もぼーっとしているのですが、それが暑さのせいなのか、風邪のせいなのかも定かではありません。一週間以上続いている熱波のせいで、体が弱っているのは明らかで、午後、三時間ほど昼寝…

詩歌の世界に遊ぶことで、魂を遠い過去へと遊行させ、心頭を冷却する ― 西行『山家集』「海辺明月歌」

昨日紹介したピジョー先生の本に、西行の『山家集』から「海辺名月」と題された次の歌が採られています。 難波潟月の光にうらさえて波の面に氷をぞ敷く (秋・326) 手元には四冊の注釈書がありますが、古い順に見ていきましょう。まず岩波の古典文学大系(1…

海から遠く離れたストラスブールで、日本古典文学における「海」の旅に出ましょう!

誰もそんなこと頼んでないのですが、熱波の襲来が一日前倒しになったようで、本日午後、ストラスブールでも40度に到達するようです。今、13時過ぎですが、室内の気温が32度に達しております。どこまで上昇するのかわかりませんが、「来るなら来てみろ!」と…

炎暑からの避難所として古典の世界にしばし遊ぶ

7月はじめの口頭審査のために読んでおかなくてはならないもう一つの修士論文を夜明け前に読み始める。私自身関心をもっているテーマを扱った論文なので、昨日読み終えた論文よりは前向きな姿勢で読める。昼過ぎまでに3分の1あまり読んだところで切り上げる…

失われた昔の〈家〉を深く生きなかった悔恨の情に心を突かれることはないであろうか

昔住んでいた家をふと思い出し、当時、なぜその場所をもっと深く生きなかったのかという悔恨の情に心が突かれるということはないであろうか。 この痛みを伴った、失われた住まいの想起に関して、バシュラールは『空間の詩学』(La poétique de l’espace)の…

「恋」は「嘆き」、「嘆き」は「霧」― 古代日本の詩的表象空間

「恋」の古代における意味の説明のために『万葉集』のなかの「片恋」の用例を改めて読み直した。集中、十一例あり、すべて、夫婦あるいは恋人の関係のなかで用いられている。 「旅に去にし 君しも継ぎて 夢に見ゆ 我が片恋の 繁ければかも」(巻第十七・三九…

「山谷」に導かれ、山部赤人の歌に出遭う ―「あしひきの山谷越えて野づかさに今は鳴くらむうぐひすの声」

自宅付近の北墓地の雪景色 思わぬ言葉の連鎖で詩歌に出遭うことがある。まったく詩的ではない散文を読んでいて、ある言葉の使い方が気になり、それを辞書で確かめたら、別の言葉に出会い、その用例として詩歌が挙げられているような場合がそれに該当する。こ…

「苦の娑婆や桜が咲けば咲いたとて」― 新年のご挨拶に代えて

目黒祐天寺境内 皆様、明けましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。 先月18日に不注意から自宅浴室で転倒、左肋骨二本骨折という災厄に見舞われ、年末はほとんど自宅に籠もりっきりで回復を待ちました。まだ体の動かし方によ…

シオランの『カイエ』に引用されているエミリー・ディキンソンの詩「私は、脳内で、葬儀が執行されているのを感じた」

古びた絵葉書風 シオランの Cahiers 1957-1972(『カイエ 1957-1972』法政大学出版局、2006年)の1957年6月26日付けの最初の断章のなかにエミリー・ディキンソンのある詩の一行目が英語原文のまま引用されている。« I felt a funeral in my brain » それに続…

ドイツ語の詩の鑑賞はいかが(2)― ヨーゼフ・フォン・アイヒェンドルフ「憧れ」

カーン城城壁から見下ろしたカーンの街並み ハルトムート・ローザ『レゾナンツ』には、万物照応とも言えるようなロマン主義的レゾナンスを歌った詩人としてヨーゼフ・フォン・アイヒェンドルフ(1788‐1857)への言及が数カ所あり、その詩がいくつか引用され…

ドイツ語の詩の鑑賞はいかが(1)― ハインリッヒ・ハイネ『歌の本』連作「北海」中の一篇「問いかけ」

14日のディナーはカーン城内のこのレストラン Le Mancel で 先日来何度か話題にしているドイツの社会学者・哲学者であるハルトムート・ローザの『レゾナンツ』には、ドイツ語の詩が数多く引用されている。私が読んでいるのは同書の仏訳だから、引用されてい…

悲嘆いやます循環構造 ―『梁塵秘抄』より

日陰は涼しい 夜半、胸部を圧迫する疼痛により目覚める。疼痛が続く間は眠れない。枕頭の書棚から『梁塵秘抄』(植木朝子編訳、ちくま学芸文庫、二〇一四年)を取り出し、適当に頁を開く。目に止まった歌についてあれこれ思いを巡らす。 鏡曇りては わが身こ…

放哉句再訪 ― 無為無言の詩人の境位

ケール、別名をリョクヨウカンラン(緑葉甘藍)、ハゴロモカンラン(羽衣甘藍) 一日物云はず蝶の影さす 尾崎放哉の代表句の一つであるこの句は、拙ブログでもすでにニ度取り上げている(「蝶の影」と「心身景一如 ― 日本の詩歌における「世界内面空間」の形…

「詩の光の声のあらわれ」― 詩人が詩人を読むとき

スピノサスモモ(サクラ属の一種) 「現代文学」の授業では、学生たちに自分たちと同時代の日本の詩人の〈声〉を聴いてほしくて、数多ある谷川俊太郎の詩作品の中から2000年以降に書かれた作品ばかりを選んだ。昨日の記事で引用した「すきになると」はその中…

万葉以後の和歌において、黒髪の美を歌う和歌の系譜はほんとうにあるのか

この橋の向こう側はドイツのケール 今日の記事のタイトルとして示した疑問は、万葉以後の「黒髪の美を歌う和歌の系譜」は、こと中古および中世の和歌に関しは、そんなに自明のことではないからである。 中西進は『万葉の秀歌』(ちくま学芸文庫、2012年)の…

『万葉集』のなかの「黒髪」歌 ― 孤閨に黒髪を枕上に靡かせて寝る

鳩の夫婦? 巻第十一の正述心緒のなかには黒髪を詠んだ歌が四首あるが、そのうちの2610については先月27日の記事ですでに取り上げた。 その手前にある三首のうち2532と2564とには、女性が孤閨で黒髪を玉藻のように枕上に靡かせて寝るという姿態が詠まれてい…

『万葉集』のなかの「黒髪」歌 ― 美しく痛切な人麻呂の挽歌

星のごときマグノリア 万葉集には黒髪という言葉が詠みこまれた歌が二十三首ある。うち六首が長歌。表記は1241と2532の「玄髪」を除いてすべて「黒髪」であり、万葉仮名による一字一音の表記例はない。1241に詠まれているのは「黒髪山」という地名で、黒髪そ…

「身に関る万事 自然に悲し」、あるいは詩作の動機としての「深い人生の悲哀」― 菅原道真『冬夜九詠』に触れて

雪の下に静かに眠る 大岡信の『名句 歌ごよみ』(全五巻、角川ソフィア文庫、1999-2000年)は、折に触れて紐解くお気に入りのアンソロジーである。「冬・新年」「春「夏」「秋」「恋」の五分冊になっている。所有しているのはいずれも電子書籍版なので、手…

灯火に静心なくクリスマス

ノエルの休みに入って読書三昧に耽っている。十日ほど前に購入した Kindle Scribe(2024)で読書ノートを作りながら読んでいる。プレミアムペンの書き心地が期待以上によく、書くことに喜びを覚える。読書ノートとしてだけでなく、講義ノートとしても使って…

「冬ながら空より花の散りくるは雲のあなたは春にやあるらむ」―『古今和歌集』より

月曜日の「日本思想史」の授業後ほぼ毎回質問に来る女子学生がいる。成績は断然トップ、知的レベルが他の学生とは違うとさえ言ってもよい。ときどきこちらの虚をつくような質問で私を戸惑わせる。 一昨日は、「先生、良い詩と良くない詩を見分けるにはどうし…

「光なき谷」―『古今和歌集』より

「おのずから」が副詞としての用法に限られるのに対して、「みずから」は名詞/代名詞/副詞として広く用いられる。前者が上代から用例があるのに対して、後者は平安時代初期に登場する。 このことと『古今和歌集』での「思ふ」の頻用と何か関係があるだろう…

谷川俊太郎「生まれたよ ぼく」

今日早朝から昼過ぎまで、明後日の学部三年の授業「日本思想史」の準備とその授業で毎回実施している書き取りテストの採点に没頭していました。 この書き取りテストは、その前に先週フランス語で説明した日本語のテキストを易しい日本語に置き換えて説明した…

谷川俊太郎「ありがとう」

弊日本学科の現代文学史の授業で詩が取り上げられることはほとんどない。その大きな理由の一つとして時間が足りないということは確かにあるが、そもそも小説や批評に比べて詩が軽視される傾向にあることも否めない。これは古典文学史との大きな違いである。 …

谷川俊太郎「泣いているきみ」

昨日の早朝は気温が氷点下まで下がりました。日中には雪もちらつきました。市内ではこれがこの冬の初雪ではないかと思います。午後、その小雪が一時間ほどで止むと、途端に青空が広がりました。 この機を逃すべからずと、朝からずっと読んでいた博論を机上に…

谷川俊太郎「おばあちゃんとひろこ」

12月7日まで「サイテー・モード」だと言いましたが、その主な理由は、12月6日に審査員として参加するパリのINALCOでの博士論文の口頭審査のために審査対象の博士論文を読むことに集中しなければならないということです。 その博士論文は、和辻哲郎の倫理学と…