内的自己対話―川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。

2020-08-01から1ヶ月間の記事一覧

「浜辺の歌」― 生まれたときから故郷を喪失している者の涙の理由

日頃からテレワーク中、ストリーミングで音楽を流しっぱなしにしていることが多いのですが、さあこの曲を聴こうと思って聴くときと違って、こちらがまったく予期していないような曲や歌声が流れてくることがしばしばあり、その初めて聞く曲、あるいは、よく…

メディア的存在としての人間 ―『情報感染症に罹患しないためのメディア原論』より

メディア・リテラシーの授業の四回目は、序説としての哲学的講義の最終回である。人間存在の本来的なメディア性がそこでのテーマである。そこから、なぜ現代社会においてメディア・リテラシーがとりわけ重要なのかという問いに対する答えを結論として引き出…

無媒介な直接知はそもそもありえない ―『情報感染症に罹患しないためのメディア原論』より

メディア・リテラシーの授業の第三回目のテーマは、この科目の直接的な学習対象である日本のメディアからますます遠ざかる。そのテーマとは、「いっさいの媒介を経ない直接知はありうるか」という問いである。「そんなテツガク的な小難しい話、この授業のテ…

情報は情報であるかぎり、真理ではありえない ―『情報感染症に罹患しないためのメディア原論』より

メディア・リテラシーの第二回目の授業は、昨日の記事で示したメディアの定義に従って、メディアを介さない「直接的な」情報は存在し得ないという前提から議論を展開していく。いかなる情報もメディアにおいて、メディアによって発生するのであれば、それら…

情報生成の場所としてのメディア ― K先生の『情報感染症に罹患しないためのメディア原論』(企画段階)より

新年度から新たな任地へと移る同僚が担当していた学部三年生必修の Compréhension des médias という週一時間の授業を九月から私が代わりに担当する。自分が適任だとはとても思えないのだが、その同僚が新しいポストに決まったのが時期的にかなり遅く、その…

「正しく恐れる」ことの難しさ ― 常軌を逸した恐れ慄き、投げやりな悲観主義、根拠のない楽天主義、それらのいずれにも傾かずに中庸の途を協働しつつ探し続けることの難しさ

コロナ禍が世界中を襲い始めてから、日本のメディアを通じて、何人かの科学者の方たちが一般市民に向けて、「正しく恐れる」ことの大切さを強調されていました。その心は、「正しい知識に基づいて、適切な対策を取り、過度な恐れと不安を抱かず、良識ある行…

偏差値75以上の学生と40前後の学生がいる教室で、あなたはどのような授業をしますか

昨日月曜日から大学の事務が再開した。それに合わせて、朝方に九月からの新入生宛に歓迎の辞を学科長として一斉メールで送信した。予想はしていたことだが、それに応えるかたちで新入生から様々な質問が届いた。その文面と内容からわかることは、というか、…

哲学は、隠されたものを顕にすることではなく、見えるものを見えるようにすることである ― ウィトゲンシュタインとフーコー

フランスを代表するウィトゲンシュタインのスペシャリストの一人であるクリスチアンヌ・ショヴィレ Christiane Chauviré の Voir le visible. La seconde philosophie de Wittgenstein, PUF, coll. « Philosophies », 2003 のキンドル版の宣伝メールがアマゾ…

生きている形は見ることによって捉えられるのであって、分割することによってではない ― カンギレム『生命の認識』より

ビュルガの本の序論で、ゲーテの形態学について言及されている同じ段落で言及されているのがカンギレムの『生命の認識』(La connaissance de la vie, Vrin, 2e édition revue et augmentée, 2009 ; 1re 1965. 邦訳『生命の認識』法政大学出版局 叢書・ウニ…

私たち自身が形成を心がける動きに満ちた状態に身を置くこと ― ゲーテの形態学の要諦

冨山房百科文庫の一冊として刊行されているゲーテの『自然と象徴 ― 自然科学論集 ―』(一九八二年)は、折に触れて本棚から取り出して数頁読むということを二十年以上続けている本の中の一冊で、それだけ愛着がある(このことについては、今年の一月三十一日…

気づかぬうちに人の心を蝕むメタフィジカルなウイルスのほうが私は恐ろしい

八月もあと十日を残すばかりとなり、いやでも全力で新学期の準備に取り組まざるを得ない時期に入っています。ところが、昨年までとは大きく異なる未曾有の状況の中に置かれて、どうにも気が入らないというか、地に足が着いていないというか、今までに経験し…

独断と偏見による私のテレビドラマ・ベストテン

今日から24時間仕事全開モード(睡眠中も締め切りが迫った仕事がらみの悪夢にうなされるということ。これはすでに始まっている!)に入るので、その「前夜祭」(というか、今年もやってきた地獄門くぐり直前の景気づけ)として、昨日は、プールにも行かず、…

私たちは「故郷」からどれだけ遠く離れて生きているのか ― 植物がその形によって無邪気に語る言葉を「聴く眼」をもった哲学者ショーペンハウアー

ショーペンハウアーは、『意志と表象としての世界』第一巻第二十八節で、植物と動物と人間との間の差異について、次のように述べている。 外形だけで自分の性格を全部表わし、明らさまに示す植物の素朴さについてここで注意を促しておきたい。植物は単なる外…

内的諸傾向の総合的表現としての形態 ― 現代の自然哲学の中に位置づけ直されるべき形態学

植物をその固有性において考察し、その生態を適切に記述するためには、どのような科学的言語が必要なのだろうか。私たち人間がよりよく知っている動物の生態を記述するための言語を応用するところから始めなければならないのだろうか。しかし、動物的生につ…

人間の知性とは異なった〈知性〉を植物に認める生命世界像はいかにして可能か

植物に意識・記憶・痛苦・感情・知性を認める植物学者たちがいる一方、そのような立場に否定的な植物学者たちもいる。この対立は、同じ概念的な枠組みの中で、どちらか一方が正しくて、他方は間違っているという形で決着がつけられる話ではなさそうである。…

私たちの言語は、植物の生態を語るのには必ずしも適切ではないが、それでも植物を讃えることはできる

ビュルガの本には、多数の著者たちからの引用がいたるところに散りばめられている。それぞれの文脈での著者の引用の意図とは関わりなく、それらの著者の中でひときわ印象深いのが、8月9日の記事の中ですでにその名を挙げた植物学者 Francis Hallé である。そ…

樹々たちが許してくれるのならば

今日の記事は、昨日までの哲学的植物論に比して、ガク~ンとユルい内容です。双六でいえば、一回お休みって感じです。敗戦後七十五年の今日という日に不謹慎極まりないことなのですが、グタグタ、ウジウジした話をお許しください(でも、短いです)。 ビュル…

私たち人間の生命は他の生き物たちの転生の機会なのだろうか

エマヌエーレ・コッチャの『植物の生の哲学 混合の形而上学』は、ネット上でちょっと検索しただけの印象だが、日本でもいくらか注目されているようである。著者は1976年生まれのイタリア人で、現在パリのフランス国立社会科学高等学院の准教授。前著 La vie …

「ベジタリアンよ、人参の苦痛の叫びを聞け!」って、あなた、本気?

一切の肉食を、宗教的理由からでもなく、医学的なあるいは何らかの健康上の理由からでもなく、動物虐待に絶対反対の立場から拒否している人を想像してみよう。その人は、人間の食卓に供されるために殺される動物たちの苦痛を思い、肉食は人間による動物の権…

オオカミに襲われるイノシシと同じく、シカにかじられるナラの苗も痛みと死の恐怖を感じているのだろうか

ビュルガが『植物とはなにか』で批判の標的にしているのは、近年人気を博している、いわゆる「ネオ・アニミズム」である。この新傾向は、植物も、人間や動物を同じように、痛みを感じるのであり、死を恐れるという考えを世間に広めた。しかし、ビュルガは、…

植物理想主義(l’idéalisme végétal)がもたらす危険な帰結を回避しつつ、人間・動物・植物の持続的共生社会を再構築することはできるだろうか

今日の記事では、ビュルガが引用していたカンギレムによる生物個体の定義に関連して、ビュルガの本を離れて、生と死の問題について別の観点を導入しておきたい。それは、人間の生死と植物のそれとの関係をビュルガの本とは別のパースペクティヴから見ると、…

植物は生物ではないのか

フランシス・アレのいう樹木の「潜在的不死性」に言及された直後に援用されているのがフランス人植物生態学者のジャック・タッサン Jacques Tassin の Penser comme un arbre, Odile Jacob, 2018, 2020 (en format de poche) である。アレの所説を補強するた…

あまりにも人間的なものに覆われた現代世界における樹木という根源的な他性

フロランス・ビュルガ Florence Burgat が Qu’est-ce qu’une plante ? の中で最初に引用するのは、高名なフランス人植物学者・樹木学者フランシス・アレ Francis Hallé (1938-) である。その引用は序論の冒頭の段落にある。その引用が出てくるところまでの大…

『植物とは何か 植物的生命試論』― 生命の還元主義的一元論、倒錯的植物中心主義、植物擬人主義を超えて

植物についての哲学的考察を披瀝した書物の刊行は、欧米において、ここ数年前例のない活況を呈している。それらの書物のうちの多くがそれぞれの仕方で表明している「植物中心主義」と「植物擬人主義」を批判的に通覧している著作 Florence Burgat, Qu’est-ce…

夏休み特別企画「植物哲学序説 ― 植物の観点から世界を見直すとき」

『語りかける身体 看護ケアの現象学』を読みながら、それと並行して考え、関連書籍を集めていたテーマがある。そのテーマとは、「植物とはなにか」である。この問いは、「人間性・動物性と区別される植物性とはどのように定義されうるか」「植物固有の存在様…

一つの同じ場の共有としての笑い ― 西村ユミ『語りかける身体 看護ケアの現象学』読中ノート(9)最終回

昨日の記事で予告したように、今日の記事が今回の連載「西村ユミ『語りかける身体 看護ケアの現象学』読中ノート」の最終回です。かなり長い文章(三千字超)ですが、最後までお読みいただければ幸甚に存じます。 Aさんが本書の著者のインタビューを受け始…

「あなたたちのおかげで、私たちはここに居ることができる」― 西村ユミ『語りかける身体 看護ケアの現象学』読中ノート(8)

Aさんの語りは、それがご自身の経験そのものから「芋蔓式に」(彼女自身がインタビューの中で使った言葉)出て来るもので、けっしてインタビューに先立ってあらかじめ整理された言説でもなく、なんらの理論的な裏づけによって支えられてもいないからこそ、…

人の死は、「最終的に完全に沈む心の中の底のところで、静かに積もっていって初めて受け入れられる」― 西村ユミ『語りかける身体 看護ケアの現象学』読中ノート(7)

Aさんと横井さんとのつき合いは、横井さんの死亡退院によって半年ほどで終わりを告げました。しかも、二人が互いに馴染み始めたころに横井さんの状態に大きな変化が起こりました。横井さんは、肺炎の発症を契機に、水頭症と髄膜炎になります。そのため人工…

患者それぞれに相応しい呼び方によって患者の体に声で触れる ― 西村ユミ『語りかける身体 看護ケアの現象学』読中ノート(6)

まず昨日の記事の訂正です。Aさんが住田さんの次にプライマリーナースとして受け持つ患者が入院してくるまでの間を二カ月間となっていましたが、これは私の読み間違いで、半年間に訂正いたします。昨日の記事もそう訂正してあります。 さて、Aさんは、住田…

「流浪の看護師」― 西村ユミ『語りかける身体 看護ケアの現象学』読中ノート(5)

看護師AさんのTセンターでの四年間の看護経験全般についての語りの後、その間にプライマリーナースとして受け持った、あるいは受け持っている三人の患者それぞれとの関わり合いについての大変内容豊かな聞き書きが続きます。 本書では、その三人についてそ…