内的自己対話―川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。

2024-10-01から1ヶ月間の記事一覧

夢 ― 自己と非自己との分節が曖昧になる生命の次元

フロイトの『夢解釈』(邦訳は『夢判断』)の初版が刊行された1900年から百年前 、ヨーロッパの学者たちはすでに夢に強い関心をもっていた。 夢は「人格のもっとも密やかな中心」( « le centre le plus secret de la personnalité », Histoire de la vie pr…

近代における「自律」という「監獄」の誕生

メーヌ・ド・ビランが1815年に年間を通じて付けていた日記は、Marc-Antoine Jullien (1775-1848) が考案・刊行・販売した « Agenda général ou Mémorial portatif pour l’année 18 . . » に記されている。この日記帳の形態についてはアンリ・グイエがビラン…

年間総ジョギング目標距離3660kmに本日到達

哲学の話が10日も続いたのでちょっと肩が凝りました。話題を変えます。 今日、表題のような区切りがつき、本人はちょっと感慨を覚えています。 年間を通じて一日平均10キロという目標値をそのまま遵守した場合の年間総距離に今年はあと63日残して到達したこ…

19世紀初頭の気象学の自然科学としての自立が到来させた「神なき」内面世界

特殊な装置を使用する場合や宇宙船・潜水艦あるいはそれに準ずる特殊な閉鎖空間を例外として、私たちは大気のなかでしか生きられず、常にある気候・天気・空模様の下で暮らしているのだから、それらからの直接的な心身への影響に恒常的に晒されている。これ…

メーヌ・ド・ビランの哲学をその〈外〉へと開き、その〈外〉から考察する手がかりとなる2つの論文

メーヌ・ド・ビランを哲学者として研究対象としたモノグラフィーはフランス語圏でもさほど多くはなく、1948年に出版されたアンリ・グイエのビラン研究から数え始めても主要な著作に限れば十指で足りるのではないかと思う。 パスカル生誕400年であった昨年202…

「自己」の外なる「内なる無辺の大地」に自ずと実る智慧を待ち望み続けた哲学者

Jean-Louis Chrétien (1952 - 2019) は私にとってもっとも大切な哲学者の一人であり、ちょうど二十年前に読んだ Promesses furtives (Les éditions de Minuit, 2004)、そのなかでも特に第6章 Trouver et chercher はいまだに汲み尽くせぬ思索の源泉の一つで…

メーヌ・ド・ビランの公生涯と内省との間の振り幅、精神の世界の広がりと深さ

メーヌ・ド・ビラン(1766‐1824)はナポレオン一世(1769‐1821)と同時代人である。フランス革命時には、王党派軍人としてヴェルサイユ宮殿の防衛に当たり、九死に一生を得る。その後三年間パリで過ごし、先祖代々の領地があるベルジュラックに戻り、そこか…

哲学者の末期の沈黙 ― メーヌ・ド・ビラン『日記』最後の記事と死の前日の自筆証書遺言との間(6)後世に託された無尽蔵の遺産

メーヌ・ド・ビランは1824年7月20日午後4時に逝去した。その前夜9時頃にビランは遺書を口述筆記させている。それ以前にも何通か書いた遺書があったが、それらを破棄し、本状が自分の最後の意思であることが遺書の最後に明記されている。この最後の遺書が以前…

哲学者の末期の沈黙 ― メーヌ・ド・ビラン『日記』最後の記事と死の前日の自筆証書遺言との間(5)絶望のうちにあって待ち望む

ビラン最後の日記の最終二段落を読む。 Mens sana in corpore sano. La réunion des deux bien nécessaire pour que l’homme soit entier, mais comment l’est-elle ? On peut avoir un corps frêle avec une âme forte et une âme forte et une âme lâche e…

哲学者の末期の沈黙 ― メーヌ・ド・ビラン『日記』最後の記事と死の前日の自筆証書遺言との間(4)ぼろぼろになった肉体に対する最後の抵抗としての日記

今日と明日の二回でメーヌ・ド・ビラン最後の日記全文を読み終える。 On ne peut savoir d’avance à quel degré de nullité morale et de dégoût de soi-même la maladie peut nous réduire. J’en suis la preuve vivante. L’homme hait son existence lorsq…

哲学者の末期の沈黙 ― メーヌ・ド・ビラン『日記』最後の記事と死の前日の自筆証書遺言との間(3)「私を苦しめているのは私の精神の弱さである」

ビランの最後の日記の続きを読もう。 Le stoïcien est seul ou avec sa conscience de force propre qui le trompe ; le chrétien ne marche qu’en présence de Dieu et avec Dieu par le médiateur qu’il a pris pour guide et compagnon de sa vie présent…

哲学者の末期の沈黙 ― メーヌ・ド・ビラン『日記』最後の記事と死の前日の自筆証書遺言との間(2)「孤身にして跌倒る者は憐なるかな」

昨日引用した5月17日の日記の冒頭の段落に続く短い二段落を引用する。 Il faut toujours être deux et l’on peut dire de l’homme, même individuel, vae solo ; si l’homme est entraîné par des affections déréglées qui l’absorbent, il ne juge ni les …

哲学者の末期の沈黙 ― メーヌ・ド・ビラン『日記』最後の記事と死の前日の自筆証書遺言との間(1)

昨日の記事で紹介したジャン・スタロバンスキーの Le corps et ses raisons には « Silence du malade, discours du médecin » と題された8頁の短い論文が収められている。巻末の初出情報によると、初出時のタイトルは « Moreau de la Sarthe et Laennec au …

すべての人間存在にとって原初的な所与である「体感」と近代固有の倒錯的「自体愛」との境界線はどこに引かれるべきか

先日話題にした Georges Vigarello の Le sentiment de soi. Histoire de la perception du corps XVIe – XIXe に出てくる cénesthésie という概念についてスタロバンスキー の論文 « Le concept de cénesthésie et les idées neuropsychologiques de Moritz…

SNSの倫理

教材探しという目的もあり、ネット上で閲覧可能なニュースを毎日読んでいますと、SNSによる被害に関する記事もよく目にします。 今日、ある大学の女子学生が「なりすまし」被害に遭った記事を読みました。加害者はその女子学生があたかも自分で卑猥な言葉や…

「居場所がない若者たち」を生み出す日本社会の病巣に至るには

修士の演習で読んでいる『ケアとは何か』がきっかけとなり、出席している学生たちの多くが「居場所」に関心を持つようになった。一つには、「居場所」の問題が日本社会の現状をよりよく知る一つの手掛かりになるからであり、一つには、自分たち自身の問題と…

NewJeans の « Supernatural » を日本語聴解教材として使ってみると

日本学科学部三年の「日本思想史」にしても応用言語学科英語・日本語併修コース学部一年の「日本文明入門」にしても、私が得意とするお固いお話が続いてしまうと、学生たちは、ごく一部の意識高い系の学生を除いて、当然のことながら、すっかり飽きてしまう…

『光る君へ』第39回 ― 惟規最期

昨日の『光る君へ』第39回で惟規の最期のシーンが出てきました。やはりそれとの関係で拙ブログの今年6月26日の記事「紫式部の弟惟規の最期の姿が『光る君へ』に取り入れられるとすれば」へのアクセスが急増していたのですね。この8日間でこの記事だけで20000…

自己感は身体の「全体感」という原初的な次元に基礎づけられている

生理学および心理の分野で「体感:快感,不快感を基本とする,漠然とした全身の感覚」を指す術語としてのフランス語 cénesthésie は十九世紀前半に登場する。しかし、それ以前にメーヌ・ド・ビランが cœnesthèse という語を用いて、快苦を感じる原初的な身体…

内側から感じられている〈からだ〉の居場所で自己感は育まれる

昨日の記事の終わりで予告したように、まず『ケアとは何か』のなかから「自己感」という言葉使われている表現及び文章を拾い上げてみる。 自己感が失われて孤独のうちに閉じ込められる苦痛のモード 〈からだ〉の緊張をゼロにすることが自己感の回復につなが…

「自己感」あるいは「見守られている中で独りになれること」について

村上靖彦氏が「自己感」という概念にその著書の中で言及するときは、明示的にであれ暗示的にであれ、ウィニコットの sense of self を参照しており、この意味での自己感は「ホールディング(抱っこ)」構造において形成される。ウィニコットは、乳幼児の母子…

「自己肯定感」という言葉に対する小さな私の違和感

いつの頃からかはっきりとは特定できないが、私がまだ日本にいた頃にはそんなに聞いた覚えがないから、おそらくは一九九〇年代末からだと推測されるが、「自己肯定感」という言葉が近頃よく使われるようになったという印象がある。最初はおそらく心理学や教…

画面の「向こう側」に熱量が伝わることを願いながら

昨日火曜日の朝、例外的に遠隔授業を一コマ行った。学部三年の「日本思想史」である。なぜかというと、通常の時間割ではこの授業は前日月曜日8時30分から10時までなのだが、その授業直前になって急遽休講にせざるを得なかったからである。 月曜日の朝、授業…

講義の劇場性 ― 今月の新刊ジル・ドゥルーズ『スピノザ講義』に触れて

パリに住んでいた頃は、週に何度かふらりとカルティエ・ラタンの書店何軒かに立ち寄り、そこで思いもかけない本との出逢いも数え切れないほどあった。ストラスブールにももちろん素敵な本屋さんはある。でも、もう何年もほとんどそのような本屋さんに足を踏…

旬の話題に背を向けて、後ろ姿が時雨れてゆくかって?

昨日、拙ブログへのアクセス数が6184および閲覧者数が5386とそれぞれ普段の5倍から7倍に増え、総合順位も32位と5月に3位に上昇したとき以来の高順位となっていて、なんでなんだろうとアクセスされたページを見てみたら、今年の6月26日の記事「紫式部の弟惟規…

大河ドラマ『光る君へ』にもし最優秀助演女優賞があるとすれば、私は清少納言役のファーストサマーウイカに躊躇なく一票投じます

今さっきNHK大河ドラマ『光る君へ』の最新回(第38回)をNHKオンデマンドで観ました。日本との時差が夏時間で7時間あるフランスで午後5時過ぎにはもう視聴できます。これってもうほとんど「リアルタイム」で観ているに等しいって勝手に思って喜んでいます。 …

「非自己」の多数化・細分化・差異化の「劇場」としての「自己」

昨日の記事で言及した『看護実践の語り』の急性 GVHD の記述箇所には注が付けられていて、その注には、ジャン‐リュック・ナンシー/西谷修(訳)『侵入者――いま、〈生命〉はどこに?』(以文社、2000年、28~29頁)からのかなり長い引用がある。その引用箇所…

「侵入者」の「圧勝」は宿主とともに「侵入者」自らをも消滅させるという結果に終わる

多田富雄の『生命の意味論』は講談社学術文庫の先月の新刊の一冊であるが、その原本は1997年に新潮社から刊行されており、今回の新刊でも科学的データは原本刊行当時のままなので、科学的には最新の研究に基づいて書き換えられなければならない箇所も少なか…

苦しみうる(passible)存在であることは人間にとって不幸なことなのか

今学期修士の演習で『ケアとは何か』を読みはじめるずっと前から、いや、そもそもケアについて考えはじめるずっと前から、苦しみ(souffrance)と痛み(douleur)との区別と関係については何度も考えてきた。にもかかわらず、いまだ問題の核心に迫ることがで…

苦しみを前にして「何もできない」という状況のなかでのケアとは

いっさいの医療・看護行為の手前のところで、人が人にできることはそもそも何なのかという、誰にとっても無縁ではありえない根本的な問いに、医療・看護としてできることはすべてやり尽くした後、苦しみを前にして「何もできない」という状況のなかで患者と…