内的自己対話―川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。

2023-11-01から1ヶ月間の記事一覧

パリ・ナンテール大学シンポジウム「ハイデガーの超克」初日

朝6時40分の TGV でパリに向かう。定刻より10分遅れて8時45分に東駅着。駅で RER A 線でナンテール・ユニヴェルシテ駅までのチケットを買うために自動販売機の前に並ぶ。呆れたことに、三題ある販売機のうち一台しか機能していない。私が並んだときに私の前…

1923年夏学期のフライブルクでの最後の講義に示されていたハイデガーの哲学的企図

ハイデガーの『存在と時間』を読むとき、フランス語で書かれた二つの詳細をきわめた懇切丁寧な注解書が大切な導きの糸となる。Jean Greisch, Ontologie et temporalité. Esquisse d’une interprétation intégrale de Sein und Zeit, PUF, coll. « Épiméthée …

ZOOM面談の利点

今日は午前8時から午後1時過ぎまで、4人の来年度日本留学希望者と選抜出願書類についてZOOM面談を行った。といっても、それぞれの面談は15分前後で済むので、次の面談まで45分かそれ以上間があく。これらの面談を教員室で行えば、合間に中座することはできて…

哲学部修士一年の学生から届いたメッセージ ― 植物哲学への関心

先週の火曜日、日本学科修士一年のある女子学生の友だちだという哲学部修士一年生の女子学生からメールが届いた。 植物の感覚性という問題に修士論文で取り組もうと思っているのだが、私が植物の哲学を修士の演習で取り上げていることをその友だちから聞き(…

必然的に壊れてゆくモノたちとともに生きていくということ

モノは壊れてゆく。それは仕方ない。 でも、「ええっ! このタイミングでどうして? ちょっと待ってほしいなぁ」、と思うことはある。 一昨日まで、通常の仕事モードで二台のノート型 PC を日常的に使っていた。かつては二台とも問題なく作動していた。が、…

「深い人生の悲哀」を動機とする生命の哲学

悲嘆と悲哀はどう違うのか。 まず、用法を比較してみよう。「愛児の死に悲嘆に暮れる」「人生の悲哀を感じる」などはごく一般的な用法だろう。国語辞典にはたいてい同様な表現が用例として挙げられている。それに対して、「愛児の死に悲哀を感じる」という表…

プレゼンテーションで終助詞「ね」は原則使うな

語感は同じ母語の話者たちの間であっても一様ではない。それでも、日本語を学んでいるフランス人学生たちと日々接していると、日本人同士ならほぼ誤解の余地はないと思われるところで、彼らが語感をうまくつかめていないと感じることはしばしばある。それは…

ジョギング年間目標早くも達成

今日でジョギングの年間目標3650キロメートルに到達した。最近特に頑張ったというわけではなく、10キロ以上走りたいと思い、無理なくそれができるときは12キロ以上走る日が3月以降いつの間にか増えていった結果である。 昨年は、少し「貯金」が貯まると、す…

「夢を見ることは、私にとって生きる力」―『私の夢まで、会いに来てくれた』より

島薗進氏の『死生観を問う』(朝日選書)で取り上げられている『私の夢まで、会いに来てくれた』(東北学院大学震災の記録プロジェクト・金菱清(ゼミナール)編、朝日新聞出版、2019年)に収録されている、大切な家族を震災で失った被災者の方たちの夢の語…

日仏合同遠隔授業第三回目 ― 現実の問題と向き合う哲学的思考のための演習

今朝、こちらの時間で午前5時10分から6時50分まで(日本時間では午後1時10分から2時50分まで)、日仏合同遠隔授業の第3回目がZOOMを使って行われた。私たち教員2人を含めて39名出席。欠席者はストラスブール側の1名のみ。 今回は、4つの日仏合同チームそれ…

「死生観」という語が広く用いられるようになった理由

島薗進氏の『日本人の死生観を読む』の第2章には、死生観という語が広く用いられるようになる理由とその後の経緯が詳述されている。この章の基になっているのは、「死生学(二)― 加藤咄堂と死生観の論述」という題で『死生学研究』二〇〇三年秋号に発表さ…

「トランスナショナルな正義」の漸進的な拡張という微かな希望

「世界のあらゆる国とあらゆる時代とを通じて、不変の正義」(パスカル『パンセ』S94, L60, B294)を私たちはまだ見たことがないし、おそらくけっして見ることはないだろう。「川一筋で仕切られる滑稽な正義」(同断章)はもう過去の話だと笑うこともできず…

宮沢賢治「ひかりの素足」を読み直す機会を島薗進『日本人の死生観を読む』によって与えられる

島薗進氏の『ともに悲嘆を生きる グリーフケアの歴史と文化』(朝日選書、2019年)と『死生観を問う 万葉集から金子みすゞへ』(朝日選書、2023年)とには電子書籍版もあり、授業の前日の火曜日に即購入できた。ところが、この両書に先立つ『日本人の死生観…

トリトメな記 ― 雨降る一日、センチメンタル・ダイアリー

曇時々雨、そんな天気が何週間と続いている。でも、一日中雨が降り続く日は少ない。だから、八月二七日から昨日まで、一日も休むことなく、走った。でも、今日は走らなかった。朝四時すぎに目覚めたとき、すでに雨が降っていた。午前十時からの授業の最終準…

タマシイへの日々の配慮と世話としての哲学

上田正昭の『死をみつめて生きる』(角川選書、2012年)のなかに、「タマとタマシヒ」と題された節があって、その冒頭の段落で両者の違いがこう説明されている。 「魂」という漢字をヤマト言葉ではタマともタマシイともよんで、一般的には同義として理解され…

死生観の歴史的考察から出発し、テキスト分析を経て、自分に向き合う実存的な問いへ

今日の授業形式はかなりうまくいった。まず授業の主題について主旨説明をしてから、テーマごとに六つの質問を提示し、その答えを探しながら私の説明を聴くように学生たちに指示した上で、一つのテーマについて十五分くらい説明する。それから学生たちに十分…

日本人の死生観を授業で正面から取り上げる ― 島薗進『死生観を問う』を教材として

日本人の死生観は、私がかねてから授業で本格的に取り上げたいと思っているテーマの一つである。 過去二年間にも、三年生の「日本の文明と文化」という授業で取り上げてはきた。ただ、この授業は日本語で行うということもあり、それほど立ち入った話はできず…

現代社会のよりよき理解のために必要な歴史研究

一昨日と昨日の記事で取り上げた和文仏訳の問題文の内容と親近性のあるテキストを今朝たまたま見つけた。ここに摘録しておきたい。 その前に、そのテキストに行き当たるまでの経緯を記す。 三年生の授業で読んでいる前田勉の『江戸の読書会』(平凡社ライブ…

和文仏訳問題(下)

まず、昨日の記事の最後に載せた出題文をふりがなと語彙抜きで再掲する。 歴史を学ぶことは、歴史上のできごとや年号とか人物のことを暗記することと錯覚している人々が多い。しかしそれは全くの誤りである。過去の史実を正確に認識して現在をよりよく理解し…

和文仏訳問題(上)

最後まで後回しにしていた二年生の試験の採点作業にようやく取り掛かる。答案は54枚。問題は、一番が語彙問題、二番が記述式解答、三番が和文仏訳。採点を始めてみると、思ったより速く捗る。この調子なら明日午前中には終えることができる。 出来には相当に…

思想史への存在論的観点の導入の試み ―「遊び」のコスモロジー

11月1日水曜日の「諸聖人の祝日」前後の一週間の休暇が明けて最初の週日が今日金曜日で終わる。 休暇前には、二時間の授業がそれぞれ午前と午後に一コマ、その間に二時間のオフィスアワーがあって、午後の授業が終わるのは四時だった。その時になってようや…

ほとんど望みなく日々を生きる

日頃疲労感を覚えることはほとんどない。寝つきはすこぶるよく、朝起きるのに苦労することもない(ただ、ろくでもない夢を毎晩見るのは相変わらずだが)。それはストレスが溜まらないお気楽な生活をしているからだろうと言われてしまえばそれまでだ。が、将…

第一回口頭発表練習 ― 生命倫理・動物倫理・肉食主義

今日から修士一年の演習が後半に入った。前半六回は『現代思想』に掲載された拙論二つの読解に当てられ、私からのフランス語での説明が主であった。後半は、来年二月の日仏合同ゼミの日本語での発表準備に当てられる。この後半六回では、私は、原則、日本語…

カラダ日記 ― 自己観察としてのジョギング

特に運動を日常的にしていなくても、日毎の体調の変化に敏感な方もいらっしゃると思う。私は、毎日の運動のおかげで敏感になった。 パリに住んでいたときに始めたプール通いは、ストラスブールに赴任してからも継続し、一昨年まで十一年余り続けた。その間に…

「神道非宗教論」について説明せよ ― 前期中間試験問題より

午前六時から午後四時頃まで採点作業に没頭。昨日採点した答案と同じく三年生の答案だが、今日採点したのは、三年生必修のもう一つの講義「近代日本の歴史と社会」の中間試験の答案。試験形式は、フランス語での論述式、教室での手書きの答案。 手書きの答案…

日がな一日、採点作業 ― 設問「映像表現と文章表現の違いと両者の関係について自分の考えを述べよ」

11月1日の諸聖人の祝日前後の一週間の休暇も今日日曜日が最終日。休暇直前の週に行った試験の採点作業を今日になって午前四時から開始する。休暇中、研究発表の準備作業を優先し、採点作業はずっと後回しにしていた。途中、ジョギングと入浴と昼食を挟んで…

三木清『パスカルにおける人間の研究』を読む(十七)― パスカルにおける二つの人間学(anthropologie)

Vincent Carraud 氏がそのパスカル研究でしばしば引用する文献の一つが Emmanuel Martineau 氏の編著 Discours sur la religion et sur quelques autre sujets, restitués et publiés par Emmanuel Martineau, Fayard / Armand Colin, 1992 である。パスカル…

両極限の間にあって両者から切り離されている存在様態 ― « milieu entre rien et tout »

日常のフランス語では、milieu と centre は、どちらも「中央」「真ん中」を意味する類義語として扱われるが、意味においても用法においても重ならない部分ももちろんある。 例えば、前者は、倫理的な価値として「中庸」を意味することがある。アリストテレ…

三木清『パスカルにおける人間の研究』を読む(十六)―「物質と無のあいだの真空」と「無とすべての中間」との構造的相似性

パスカルが milieu という言葉に重要な意味を込めて使っている最初の例は、真空の存否について論争したカトリックの神学者 Etienne Noël 宛の1647年10月29日付の書簡においてである。 D’où l’on peut voir qu’il y a autant de différence entre le néant et…

三木清『パスカルにおける人間の研究』を読む(十五)―「無とすべての中間」としての人間

今日は、『パスカルにおける人間の研究』を離れ、パスカルにおける milieu についてずっと考えていた。この一語が今月末のパリ・ナンテール大学のシンポジウムでの発表のキーワードになる。 Vincent Carraud 氏の Pascal et la philosophie, PUF, 2e édition…