内的自己対話―川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。

2019-10-01から1ヶ月間の記事一覧

古代哲学史と中世精神史の新世代を代表する二つの巨星

昨日の記事で紹介した二冊の本の編訳者あるいは著者、Cédric Giraud と Pierre Vesperini は、それぞれの専門分野であるヨーロッパ中世文化史・精神史と古代ギリシア・ローマ哲学史での新世代を代表する最優秀の研究者である。どちらも40歳を越えたばかりだ…

二つのテーマ:「中世キリスト教世界における霊性へと至る内省の形式・方法・階梯」&「古代ギリシア・ローマ社会において生きられた哲学の実像への方法的接近」

昨日の記事で話題にしたのは、来月からの数ヶ月の研究・教育に関わる計画であった。それらと併行してというのは時間的にとても無理であろうが、折りに触れて理解を深めていきたい主題が二つある。 一つは、十一世紀から十五世紀までの中世キリスト教世界に見…

認知科学と現象学の橋渡しとしての「空」の思想が開く視角から美の経験を記述する試み

先週の土曜日から万聖節の休暇に入った。が、休暇中に中間試験の採点をしておきたいし、今週の金・土は若手日本研究者たちとのワークショップが CEEJA であり、自由になる時間は限られている。 それでも、この数日間の貴重な休暇の間にやっておきたいことが…

歴史の中に自らを主体的に「書き込み」、そこで問題を考える試験問題

25日金曜日は、「近代日本の歴史と社会」の中間試験だった。三種類の異なったタイプの問題を与え、そのうちの一つを学生たちに自由に選ばせた。それぞれどのような形式になるか、何をテーマとするかは、一週間前の授業で説明し、一週間かけてしっかり準備し…

空思想の現在(下)聖と俗との浄化を介した全体的円環的動態としての空 ― 立川武蔵『空の思想史 原始仏教から日本近代へ』を道案内として(その十一)

今日が立川武蔵『空の思想史』についての今回の連載の最終回になる。 最終章第15章の「4 空とマンダラ」から気になったところをそのまま摘録しておく。必ずしも著者の所説に同意しているわけではないが、そうかと言って、こちらにその所説を批判するだけの…

空思想の現在(上)空のよみがえりとしての色 ― 立川武蔵『空の思想史 原始仏教から日本近代へ』を道案内として(その十)

立川武蔵『空の思想史』をこちらの関心に応じて飛ばし読みしてきた。第14章「日本仏教における空(二)―仏教の近代化」には触れない。それは、この章の内容が重要ではないからではなく、日本思想史における仏教の近代化という大きなテーマは、今の私の問題関…

日本仏教における空(一)空海、あるいはマンダラ宇宙のアストロノート ― 立川武蔵『空の思想史 原始仏教から日本近代へ』を道案内として(その九)

立川書の第13章「日本仏教における空(一)―最澄と空海」の「3 空海とマンダラ」から、空海における世界と自己との関係に関わる箇所を摘録しておく。 密教は、自己の悟りを得るために、世界と自己との関係を視野に入れる。世界と自己とは本来同一のものであ…

日本仏教における空(一)日本仏教のパイオニア最澄、あるいは「諸法実相」の系譜学 ― 立川武蔵『空の思想史 原始仏教から日本近代へ』を道案内として(その八)

立川書は、インド仏教における空を論じた後、その空についてのかなり詳細な理論的説明、後期インド仏教と空、チベット仏教における空、中国仏教における空と続く。拙ブログでの同書の紹介は、第5章「インド仏教における空(二)― 初期大乗仏教」)に言及した…

面々考(下)―「面々構」あるいは徂徠の危機意識

荻生徂徠の『政談』は、八代将軍吉宗かその側近からの求めに応じて書かれた政策提言の書で、亨保十一(1726)年前後の執筆と推定されている。当初は、門外不出の秘書であったが、十八世紀後半になると、写本が作られ、しだいに世間に流布するようになり、明…

面々考(上)― 徹底化された絶対他力思想の必然的帰結としての「面々の御はからい」

『歎異抄』第二条は、「このうへは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからいなり」と結ばれている。「念仏の教えをお信じになられようと、また念仏をお捨てになられようと、あなたがたお一人お一人のお心のままになされるがよ…

分別ということ ― 『中論』第十八章「自我の批判的研究」より

昨日の記事に出てきたサンスクリット語「プラパンチャ prapañca」について、梶山雄一・上山春平『仏教の思想 空の論理〈中観〉』(角川ソフィア文庫 1997年。初版 1969年)に依拠して補足説明を加えておきたい。 ナーガールジュナ『中論』第十八章の自我の批…

インド仏教における空(二)龍樹における分節的世界としての言葉 ― 立川武蔵『空の思想史 原始仏教から日本近代へ』を道案内として(その七)

第5章「インド仏教における空(二)― 初期大乗仏教」の「3 竜樹における言葉」を、一部省略し、それに伴って必要とされる若干の言い換えを交えて引用する。 言葉は世界の構造を表している。世界は二つ以上の項とその間の関係とがあれば成立する。竜樹はこ…

インド仏教における空(二)龍樹における空と縁起の統一的把握 ― 立川武蔵『空の思想史 原始仏教から日本近代へ』を道案内として(その六)

第5章「インド仏教における空(二)― 初期大乗仏教」の「2 竜樹における空と縁起」から、龍樹が八宗の祖といわれる理由がよくわかる箇所を摘録する。 竜樹の思想は、世界の空であることを独自の論理によって突き詰めるとともに、元来別の起源を持つ思想で…

「授業がツマラナイと思うのなら、教室に来るな!」― 『K先生の黄昏放言録』(未刊)より

私は温厚な人間ではない。が、ストラスブールに赴任してから、年間を通じて一度も授業中に学生を怒鳴りつけたことがない年が何年か続いた。人間が丸くなったからではなく、学生の方がそれだけおとなしくて真面目だったというだけのことである。 前任校では、…

人の関心も三日まで、あるいは「マイ・プチ・コジンシュギ」 ― ブログを続けていて思うこと

このブログを続けていて、つくづく思うことがある。それは、同一の主題に対する人の関心はせいぜい三日しか続かない、ということである。もともと大方の関心を引かないようなツマラナイ話題の場合、閲覧数および訪問者数がそもそも少ないのは当然のことであ…

インド仏教における空(二)行為の思想としての空 ― 立川武蔵『空の思想史 原始仏教から日本近代へ』を道案内として(その五)

『空の思想史』第5章「インド仏教における空(二)― 初期大乗仏教」の「1 行為の思想としての空」において、著者が第1章で提示していた行為の三要素―現状認識、目的、手段―からなる行為論の枠組みの中で、空思想が実践される場の時間が、空性に至る前、空…

インド仏教における空(一)不断の否定作業の一階梯としての「空」― 立川武蔵『空の思想史 原始仏教から日本近代へ』を道案内として(その四)

『空の思想史』第4章「インド仏教における空(一)― 原始仏教」から、私にとって興味深い箇所を摘録しておく。 空思想は、[…]基本的には個人的な宗教行為、すなわち自己の精神的な救い、あるいは救済を獲得するための行為の基礎理論として機能してきた。…

インド仏教の空思想が逢着したアポリア ― 立川武蔵『空の思想史 原始仏教から日本近代へ』を道案内として(その三)

空思想は、インド型唯名論の典型である。神としての基体の存在を認めず、属性としての現象世界と基体との区別も認めず、この現象世界も存在しないと考える。このような空の思想がインド仏教史の中でどのような位置を占めるのか。『空の思想史』第3章「イン…

空の否定的側面から肯定的側面への思想的転回、インドから中国、そして日本へ ― 立川武蔵『空の思想史 原始仏教から日本近代へ』を道案内として(その二)

『空の思想史』第2章の「6 空(シューニヤ)という語」の説明を辿ってみよう。 「空」という漢字は、サンスクリットの形容詞「シューニヤ」と抽象名詞「シューニヤター」との両方の訳語として用いられる。後者は「空性」と訳される場合も多い。また、「シ…

歴史の中の現在に向き合う方法としての思想史 ― 立川武蔵『空の思想史 原始仏教から日本近代へ』を道案内として(その一)

立川武蔵『空の思想史 原始仏教から日本近代へ』(講談社学術文庫 2003年)は、仏教史における「空」の意味の変化をその原初から日本近代まで辿るという、困難な主題に対する壮大な構想の下に実現された実に中身の濃い一冊だ。しかも、本書は大学での講義が…

新しい万年筆選びに迷う、あるいは逡巡の愉悦

二十年以上愛用してきたモンブランのマイスターシュテュック149が数日前壊れてしまった。昨年あたりから調子が悪くなってはいたのだが、先日、インクを完全に抜いて、ぬるま湯で洗浄しているときに、インクを吸引するバルブを引き上げる螺旋状に溝が彫ってあ…

「自分の下手な字を見るのは、鏡に映った冴えない己の姿を見るのより苦痛である」 ― 『K先生の黄昏放言録』(未刊)より

悪筆とまではいかない(と思う)が、私は字が下手だ。特に、毛筆ではどうにもならない。書道は小学校のときに授業の中で習っただけ。書き初めが嫌いだった。 それでも、紙に対して抵抗のある筆記用具だと少しましである。鉛筆、ボールペン、万年筆の順で下手…

Perfume を讃えて ― 祝ベスト・アルバム Perfume The Best“P Cubed” 発売

このところ雨が多い。多少の雨なら大学まで自転車で行くが、それが少し躊躇われるほどの降りのこともある。そんなときは路面電車を使う。大学まで自転車の倍以上時間がかかるから、それは嬉しくない。でも、ヘッドホンで音楽を聴きながら行けるのは、ちょっ…

「日毎、夢路を彷徨う」

ほぼ毎晩、夢を見る。でも、大抵の場合、目覚めた直後でさえ漠然とした気分が躰の奥に澱のように残っているか、あたりに残り香のように漂っているだけで、細部はもう思い出せない。展開される具体的なイメージは毎回異なっているが、パターンは一定している…

『かぐや姫の物語』― 姫の犯した罪と罰、あるいは古典を読むということ

明日の授業では、高畑勲の『かぐや姫の物語』を取り上げる。 2013年11月23日から全国ロードショーが始まった高畑勲最後にして最高の作品は、公開当初からきわめて高い評価を受けてきた。公開翌月には、月刊詩誌『ユリイカ』がこの作品の特集号を組んだ。一つ…

戦国時代研究が開く視角から現代における宗教・戦争・国家の相互関係を考察する

神田千里『宗教で読む戦国時代』(講談社選書メチエ 2010年)は、その書名からも明らかな考察対象とそれへのアプローチの方法を通じて、現代における宗教・戦争・国家の三者の関係を考える上でも示唆に富んだ考察が随所に示されていて興味深い。例えば、「戦…

島原の乱は、「人々が信仰に対する決断と行動とを迫られた重大な事件」― 行動の意味を理解すること

神田千里『島原の乱 キリシタン信仰と武装蜂起』の目ざすところを「民衆を動かす宗教―序にかえて」から摘録しておく。多少表現を変えたり、略したり、あるいは若干の言葉を加えたりしているので、最後の段落を除いて、引用という形は取らないが、本書の内容…

島原の乱の複雑な全体像に迫るには―神田千里『島原の乱 キリシタン信仰と武装蜂起』

今日の授業で参照した文献の一つに神田千里著『島原の乱 キリシタン信仰と武装蜂起』(講談社学術文庫 2018年。初版 中公新書 2005年)がある。島原の乱は、日本におけるキリスト教の世紀の終焉を決定づける出来事であるから、それに言及しないわけにはいか…

「四つの口」は、鎖国体制下での例外ではなく、それこそが幕府の方針だった

いわゆる「鎖国」体制下での外交の窓口としての「四つ口」論を最初に打ち出したのは荒野泰典で、1981年のことであった(初出は、『講座 日本近代史2 鎖国』〈有斐閣〉所収の論文「大君外交体制の確立」。後に『近世日本と東アジア』東京大学出版会、1988年…

物語りとしての歴史の面白さと学術的な歴史研究の面白さとの相互補完性

歴史を学ぶ面白さを学生たちに知ってもらいたいと常々願いながら授業の準備をしている。その面白さとは、以下の二つの意味においてであり、両者は相互補完的な関係にある。 一つは、物語りとしての歴史の面白さ。今日の学術的研究成果からすれば、必ずしも厳…