内的自己対話―川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。

2017-11-01から1ヶ月間の記事一覧

声に出して読む『万葉集』

昨日の謡の稽古に参加してあらためて思ったことは、今さらなのだが、言葉の理解にとって、テキストを声に出して読むことがいかに大切かということだった。言葉の生きたリズムを自分の体で感じるには、眼でテキストを追っているだけでは駄目なのはもちろんの…

能を実体験する

今日の午後、同僚が担当する中世文学史の授業で、昨日ご講演してくださった能楽師の先生に謡の稽古をつけていただいた。 まず、能面を四十人ほどの学生たちが一人一人自分で手に持って顔にあててみて、面をつけるといかに視野が狭くなくるかを実際に体験して…

日本から能楽師の先生をお迎えしての能楽講座

今日は、午後の授業の後、かねてから企画されていたプログラムとして、日本からいらした能楽師の先生に学内で講演をしていただいた。講演開始前のこちらの不手際や会場設備の扱いの不慣れ等のせいで、講師の先生にご不快な思いをさせてしまったところもあり…

リス君に負けずに、私はブログを続けます

今日は、午前七時にいつものプールに行って三〇分だけ泳いで帰宅して以降、午後七時過ぎに学部評議会が終わるまで、ほぼ十二時間、めちゃくちゃ忙しかった。 午前中は、家で来年度カリキュラムを作成しつつ、次から次へと着信するメールを順次処理。午後は、…

『聲の形』を何の先入観もなしに観ることができて

文学でも映画でも、今ほど情報がネット上に溢れかえっていると、まったく先入観なしに、まったく前評判とか他人の評価とかを聞かずに、作品に「真っさらな」気持ちで向かい合うことは、なかなかに難しいことになってしまいましたね。 昨日、新海誠の『秒速5…

〈川〉を渡って逢いに行く女の悲恋歌物語

巻二・一一四-一一六の但馬皇女の三首は連作として、各歌の題詞と併せて、一つの悲恋物語の趣をもつ。 但馬皇女、高市皇子の宮に在ます時に、穂積皇子を偲ひて作らす歌一首 秋の田の 穂向きの寄れる 片寄りに 君に寄りなな 言痛くありとも 穂積皇子に勅して…

都を遠みいたずらに吹く風はいつ吹くのか

采女の 袖吹きかえす 明日香風 都を遠み いたずらに吹く (巻一・五一) 『万葉集』中屈指の名歌。志貴皇子作。集中、皇子の作はわずかに六首だが、いずれも清新さを湛えた秀歌。 この歌を最初に読んだとき、そのどこまでも清澄な響きに深く心を打たれた。藤…

死せるものの美の永遠化、倒叙と視点の転回とに拠る劇的効果

『万葉集』巻三・四二九-四三〇は、柿本人麻呂が出雲娘子が火葬にされた際に作った歌だと題詞にある。その詞書の中では死因は溺死とされている。詠まれた年は研究者たちによって七〇一年と推定されている。『続日本記』によると、文武天皇四年(七〇〇)三…

万葉集全歌読了に向けての心の旅のはじまり

やっと体調はほぼ完調に戻った。ただ、まだ夜寝ているときに咳き込むことがある。十一月初旬パリから帰ってきて数日後に初期症状が現われてから完全回復まで約二週間かかったことになる。 その間、十一日間も水泳を休んだ。こんなに長く泳がなかったことは、…

古代日本文藝史における「片恋文化圏」、あるいは恋の根本的構造契機

成就した恋はもはや恋(孤悲)ではない。恋は本質的に「片割れ」なのだ。 それは昔も今も変わらない。 伊藤博はその『萬葉集釋注』において、昨日取り上げた額田王歌と鏡王女歌との唱和二首の評釈の中でこう述べている。 「恋」はすなわち「待つ恋」(片恋)…

私撰万葉秀歌(15) 風さえ恋ふる待つ女ともはや待つ人なき女との優美哀切なデュエット

新しい研究成果によって従来の通説が覆されるということはどんな学問分野にもあることだ。万葉研究もしかり。 巻第四・四八八の額田王歌とされる次の一首は、おそらく誰が選んでも万葉秀歌のアンソロジーに入選間違いなしの著名な秀歌である。一番好きな万葉…

風と雪を介した愛する人との交感を願う情感的感覚世界の開け ―万葉の世界を逍遥する

昨日の記事で取り上げた万葉歌について、岩波文庫の新版『万葉集』(全五巻、2013~2015年)の当該歌の注(第三巻、2014年)には、「人に触れたものに触れることによって間接的にその人に触れたいと願うこと」を歌った他例として、巻第十二の「寄物陳思」歌…

『万葉集』の隠れ名歌を「発見する」愉しみ ― 生死を超えた感覚的な繋がり

万葉集には、人口に膾炙したいわゆる名歌・秀歌が多数ある。万葉学者や歌人たちがそれぞれに選んだアンソロジーにも事欠かない。斎藤茂吉の『万葉秀歌』(上・下、岩波新書)は、その中でも名著の誉れ高く、初版出版から八十年近くたった今日も版を重ねてい…

人類への贈り物としての『万葉集』の「心」を世界へと開く翻訳

心身ともに疲労しているとき、良き大和言葉を心が欲する。古典は特に心身に沁みる。声に出して読む、つまり誦すると、我が声を通じて言葉の響きが直に心に触れてくる。干乾びた心身に慈雨のごとくに滲み込む。心身が潤う。どんな薬も酒もそれには及ばない。…

誰そ彼(彼誰そ・彼は誰)、黄昏時、かたわれ時 ―『君の名は。』鑑賞のためのキーワード

今日の古代文学史の講義では、万葉集への導入として、まず、新海誠の『言の葉の庭』、そして『君の名は。』を話題にし、幾つかの場面をスクリーンに投影しながら、それぞれの映画の中で万葉集の歌がどのように使われているかを説明した。 『君の名は。』のは…

手裏剣落としから『言の葉の庭』へ、そして万葉の世界へ

まるで私の回復を手ぐすね引いて待っていたかのごとくに、早朝から怒涛のように処理案件が舞い込んで来る。あたかも四方八方から飛んでくる手裏剣を刀一つで叩き落さなくてはならないかのように息つく暇もないスピードでそれらを処理していく。その緊張感は…

なまくら刀のへなちょこ侍、窮地に陥る。さて、次の一手は?

複数の仕事が計画性や重要度から判断して優先順位をつけている暇もないほど同時に降りかかってきた場合は、ちょうど次から次へと切りかかってくる敵を振り払う侍のごとく、軽重にかかわりなく、とにかくできるだけ時間をかけずに、目の前の敵を順に倒してい…

体調が回復しはじめる。午前、スカイプ授業、午後、採点作業

やっと体調が回復に向い始めた。 午前中、日本の大学の学生たちとこちらの学生たちとの間でスカイプを使ったグループ発表と質疑応答を大学で行った。 先週金曜日から、その準備として、日本の学生たちとスカイプの接続状態の確認等で連絡を取り合ったり、こ…

重い心に射す薄明かり

それでなくても気にかかる仕事のことがずっと頭から離れないのに、体調を崩し、予定通りに作業を進められないと、そのことがさらに気持ちを重くするという悪循環に陥る。 今の私がそれだ。今日も一日中採点作業だったが、思うようにはかどらない。体がだるく…

日本古代史中間試験問題 ― 君は大陸からのトライ人、その〈外〉なる個の眼差しが見た日本

今日はアルミスティス(第一次世界大戦休戦記念日)で国民の祝日だが、土曜日だからありがたみはない。そのせいでプールも休み。もっとも、風邪をひいてしまったから、仮に今日開いていたとしても、大事をとって行かなかっただろうけれど。 昨晩は、なんとな…

古代文学史中間試験問題 ―『古事記』の表記法・文体に見られる歴史的現実の弁証法

どうも流感が職場で猛威を奮っているらしい。同僚のうちの二人もやられている。一人は治りかけ、もう一人は声がよく出ない。日頃水泳で体を鍛え、健康自慢の私もやられた。一昨日からなんとなく体がだるく、左腰に鈍痛がある。昨日今日とその症状が徐々に顕…

大伴家持の憂愁、あるいは日本古代社会における「近代的」孤独

万葉第四期(末期)、つまり、七三三~七五九年には、東アジア世界は次第に不安の影に覆われていく。 国内では、聖武天皇が、東大寺大仏を中心とする蓮華蔵世界(無数の世界を包蔵した美しい蓮の花の世界。清浄な仏の国)を実現するという巨大な国家プロジェ…

山上憶良晩年の九州での作歌活動、あるいは当時の最先端の「やまと歌」の制作現場

今日も小川靖彦『万葉集 隠された歴史のメッセージ』からの摘録を行いながら、山上憶良が歌人として登場する時代の政治的・文化的背景を見ておきたい。 万葉集第三期(七一〇~七三三)には、東アジア全体が安定と交流の時代に入る。遣唐使の派遣、中国をモ…

柿本人麻呂、あるいは律令国家建設過程の「やまと歌」

今日の記事では、昨日取り上げた小川靖彦『万葉集 隠された歴史のメッセージ』第二章「二 柿本人麻呂の想像力」の記述に沿って、柿本人麻呂が宮廷歌人として表舞台に登場してくる時代の政治的状況を見ておきたい。 七世紀後半、より正確には万葉第二期(六七…

額田王の〈媚態〉から、ジンメルを介して、『「いき」の構造』の〈媚態〉へ ― 小川靖彦『万葉集 隠された歴史のメッセージ』を読みながら

小川靖彦『万葉集 隠された歴史のメッセージ』(角川選書、2010年、電子書籍版2014年)は、書誌学的手続きをおろそかにせず、先行研究への目配りも懇切な、大変に読み応えがある本格的な「入門書」である。 その第二章「万葉歌人たちの詩の技法」では、『万…

神なき時代のマツリとしてのシンポジウム

上田正昭『私の古代史(上) 天皇とは何ものか―縄文から倭の五王まで』(新潮選書、2012年)第三章「マツリの展開」の中に次のような一節がある。 ヤマト言葉では日常生活をケ(褻)とよんでいるが、「ケガレ」の本来の意味については、日常の生命力が枯渇す…

ENOJP第三回国際シンポジウム三日目 ― 遅刻・遅延・入替え・短縮、しかし、何とか最終プログラム無事終了した……と思う

三日目最終日の今日は、場所をソルボンヌに移しての一日だった。午前中のセッションの司会進行を頼まれていたので、早めにホテルを出る。開始予定時刻四十五分前に会場の階段教室バシュラールに着く。そのときに二三の知り合いの参加者と一緒になる。三々五…

ENOJP第三回国際シンポジウム初日と二日目

昨日二日は、東駅から直行で、開会講演開始にちょうど間に合う時間に会場のイナルコに到着することができた。講演、そしてパネル発表をいくつか聴いた後、夕方から大森荘蔵についてのワークショップに発表者として参加。このワークショップは、フランス語圏…

今日からパリで始まる ENOJP (European Network of Japanese Philosophy) 第三回国際シンポジウム

第一回バルセロナ国際シンポジウムには参加できなかったけれど、昨年十二月のブリュッセルでの第二回大会には大会最終講演者として発表させてもらった。今回が三年連続の三回目の国際シンポジウム。ENOJPの若き中心メンバーたちの八面六臂の活躍があってこそ…

神々たちのヴァカンス、あるいはアルチュール・オヤジーの妄言録

今日は万聖節です。ヨーロッパのカトリック教圏内の諸国(そんなん、今日の政治的状況の中で、まだ意味あんでっか? ― なにゆ~てはりますの、そりゃぁ、ありまっせ~、なんつーても、金持ってはりますからなぁ、カトちゃんたちは)では、「国民の祝日」であ…