2014-03-01から1ヶ月間の記事一覧
3.2 自覚と行為的直観との方法論的差異(承前) 以上から、哲学と科学との立場の違いを、自覚と行為的直観とにおける私たちの自己の世界との関係の差異として、次のように規定することができる。科学は、行為的直観による私たちの自己と世界との相互的な…
3.2 自覚と行為的直観との方法論的差異 行為的直観と自覚とは、「矛盾的自己同一の世界に於て一つの事である」が、両者それぞれの経験を可能にする関係性の違いによって相互に区別されうる。行為的直観は、私たちの自己の世界に対する原初的関係を示すの…
3 — 自覚と行為的直観との区別と関係 西田の哲学的方法論をそれとして取り出す作業の第三段階として、西田哲学の最後期における自覚と行為的直観との区別と関係を検討していこう。その作業を通じて、私たちは、なぜ、どのように、自覚が哲学の方法として科…
2.3 人間存在の自己形成作用としての行為的直観 西田における厳密な意味での行為的直観、つまり高次の行為的直観は、歴史的実在の世界あるいは歴史的生命の世界の中で人間存在によって現実化される。行為的直観は、歴史的世界において形が形自身を自ら限…
2.2 行為的直観の原基的次元 行為的直観には、区別されるべき二つの次元がある。まず、すべての種的な行動、つまり、ある種に固有の諸行動は、原基的次元にある行為的直観と見なされる。この意味での行為的直観には、諸動物たちの種的行動もすべて含まれ…
まず、行為的直観を主題としているか、それについてのまとまった言及が見られるいくつかのテクストから引き出しうるその基本的規定を、次の五点にまとめて提示することから始めよう。 (一)「行為的直観の世界は、無限の世界である。行為的直観とは無限の過…
1.4 自己自身を対象化することによって働くもの 何処までも自己の中に自己否定を含み、自己否定を媒介として働くものというのは、自己自身を対象化することによって働くものでなければならない。 この第三のテーゼは、第二のテーゼから導かれる。後者が示…
1.2 自己自身に於て他を含むもの、自己否定を含むもの 上に見たように真実在の一般的定義から引き出されうる西田哲学の方法上の基本原則から、さらにどのような方法論上の諸規定が引き出されうるか、先に引用した一節に含まれている真実在についての五つ…
1.1 それ自身に於て有り、それ自身によって有るもの、自ら働くもの(承前) それ自身において有るものの内部では、自己知のためには、当然のことだが、知るものと知れられるものとの分裂は排除されなくてはならない。分裂があれば、捉えられるべきものは…
1 — 真実在の定義から導かれる哲学の方法 最後期の西田は、哲学固有の方法を「否定的自覚」「自覚的分析」と定義している。どのようにして自覚を哲学の方法として立てることができるのだろうか。なぜ否定的自覚なのであろうか。なぜ自覚的分析なのであろう…
今日から第二章に入る。この章のタイトルは、「西田哲学の方法論 ― 哲学の方法としての「自覚」と諸科学の方法としての「行為的直観」 ―」である。 西田哲学を全体として方法的に首尾一貫した思考のシステムとして捉えることはきわめて困難であるように見える。…
3.3 歴史的生命の論理による世界像 歴史的生命の世界とは創造的世界であり、その世界においては、その基礎或いは質料として予め要求されるいかなる実体や物質も前提することなしに、その世界そのものにおいてあらゆる形が形成される。それが「作られたも…
3.2.4 〈表現〉 歴史的世界の作業的要素として我々の身体がロゴス的であるということは、同時に対象的なるものが何処までも表現的であるということである。かかる世界が歴史的生命の世界として自己自身を形成することが、我々が見るということである。 …
3.2.3 〈行為的直観〉 真に具体的な歴史的生命の世界は行為的直観の世界でなければならない。 歴史的生命の世界を人間の諸行為の次元においてその具体的な諸相の下に捉えるということは、行為的直観がその世界の中で果たしている機能を捉えるということ…
3.2.2 〈自己形成〉 形成作用とは、環境と生命と一である世界の自己限定ということでなければならない。現在が現在自身を限定するということでなければならない。現在が現在自身を限定する永遠の今の自己限定に於て、環境と生命とが一であるのである。 …
3.2 歴史的生命の世界を構成する四つの根本契機 歴史的生命の論理は、その動態において包括的に捉えられた現実の世界の論理的構造として構想されていることは、以上の考察から明らかであろう。この論理によって構成される歴史的生命の世界の力動的な重層…
3.1 最後期西田おける生命の定義 西田哲学において、生命とは、真実在に他ならない。それは自己自身によってあり、自ら働き、自己限定するものである。西田が特に「真の生命」と言うとき、それは、私たちの自己によって直接に把握された生命を指す。人間…
3— 最も現実的なものとしての〈生命〉 西田哲学は、一つの生命の哲学である。とりわけ最後期の西田哲学には、「歴史的生命」の哲学という包括的規定を与えることができるだろう。この歴史的生命とは、生命一般のある特定の領域あるいは次元を指すのではない…
2.2.2 真実在の自己表現としての自覚 真実在は、それ自身においてあり、自ら働き、それ自身を限定し、直接的に経験される疑いえない事実としてそれ自身に現れる。この根源的事実は、絶えず自己自身を限定し、自己否定によって自己自身に現れ続ける。で…
2.2.1 デカルト再考 昨日の記事で引用した第二の定義がその「付録」の中に見出される論文「デカルト哲學について」の中で、西田はデカルトによって提起された問題と実践された方法へと今一度立ち返って考えることの必要性を訴えているが 、それはまさに…
2.2 歴史的生命の世界のロゴスとしての〈自覚〉 最後期の西田哲学における哲学の定義の中には、「生命」と「自覚」という語が繰り返し現れる。特に、次の二つの簡潔な定義の中には、西田の哲学的探究の最終の要所がどこにあったかが端的に示されている。…
2.1.3 自覚の構造から場所の論理へ こうして、自覚の基本構造を構成する第三項である「自己に於て」がそれとしてノエシス的自己からもノエマ的自己からも区別されるまさにそのところで、西田哲学は、意識の立場から飛躍する契機を捉える。内的経験とし…
2.1.2 自覚の基本構造の第三項 ―「自己に於て」 しかし、西田は上述のような内的経験の地平に留まる「意識の立場」を越えて現実世界の構造あるいは事柄そのものを捉えようとして、自覚の構造の探究をノエシス的自己の方向にさらに徹底化させていく。そ…
2 — 哲学の〈始源〉としての自覚 自覚という概念が『善の研究』以後最後期に至るまでの西田哲学の生成発展過程においてその基軸としての機能を果たしていることは論を待たない。純粋経験は、その最初の瞬間にとどまるかぎり、たとえ哲学にその根本動機を与…
1.2.3 フッサールと西田における哲学の始まりと哲学的言説との関係 西田における純粋経験に対する哲学的言説の関係を、フッサールにおける純粋経験に対する現象学的記述の関係と対比するとき、その固有性と問題点を浮かび上がらせることができる。 フッ…
1.2.2 ベルクソンにおける持続の純粋性と西田における〈今〉の純粋性との差異 西田は、『善の研究』執筆前後の時期にベルクソンの哲学への深い共感を表明しており、とりわけその哲学的方法論と「純粋持続」論とを高く評価していた。両者共に当時の実証…
1.2 純粋経験の〈純粋性〉について ― ジェームズ、ベルクソン、フッサールとの対比 西田は、W・ジェームズ、ベルクソン、フッサールとほぼ同時代を生き、「私たちの生に最も直接的に最も具体的に与えられたものへの回帰」という、その時代の哲学の主潮の…
1— 原初的事実としての純粋経験 「純粋経験」は、西田哲学の初源にありかつ常にその底に生起しつづける出来事という意味で、西田哲学における〈原初的事実〉である。それは西田の哲学的言語システムの中でその名をもって呼ばれることがなくなった後にもそれ…
今日から、西田哲学についての未完成の原稿(四百字詰原稿用紙に換算して180枚ほど)を読み直しながら、それに手を入れつつ、このブログの記事として掲載していくことにした。この原稿は、二〇〇三年にストラスブール大学に提出した博士論文が基になっている…
まず、ギュスドルフが Les écritures du moi の第三章冒頭で引用している Philippe Lejeune の « autobiographie » の定義をそのまま訳して掲げよう。 「自伝」(autobiographie)という言葉は、文明史の中のまったく新しい現象を指し示しており、それは西ヨ…