内的自己対話―川の畔のささめごと

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『教育年報』、ギゾー夫妻の完全に対等な立場でのコラボレーションの産物 ― クウォート・オンリー・モード(10)

 

 ギゾーの「ドイツ志向」は、ポーリーヌ・ド・ムーランと共に『教育年報(Annales de l’éducation)』を創刊した際にも役立った。
 この月刊誌は、表題が示すとおり、純粋に教育学と子供の指導に特化したものであった。当時、このテーマは流行しており、特にスイス、ドイツ、イギリスから新しい教育方法が次々と紹介され、活発な議論と論争を呼んでいた。
 台頭するブルジョワジーだけでなく、貴族層においても、両親が子供のごく幼い頃からその育成に直接関与するようになっていた時期であった。『教育年報』の第1号は1811年4月15日に刊行された。以後3年間、ギゾー夫妻は完全に対等な立場で、すべての原稿執筆と編集作業を二人だけでこなし、36冊を刊行した。購読料は半年10フラン、1年18フランであった。
 同誌には、「能力の不平等、その弊害とそれを防ぐ手段について」「モンテーニュの教育に関する考え方」「初等教育とABC本について」といった論文が掲載され、各号にはポーリーヌが執筆した短編物語が必ず一篇収められていた(たとえば「学校の初日」など)。
 雑誌を一から作り上げるという経験は、ギゾーにとってその後のさまざまな事業においても非常に有益なものとなった。そして間もなくそれが活かされることになる。同じ時期に、彼は他の数々の活動、とりわけ1812年7月以降の教育活動に加えて、『モニトゥール・ユニヴェルセル(Moniteur universel)』にも寄稿する機会を得た。
 同紙は帝政下でも王政復古期でも体制の公式機関紙として約3,500部を発行していた。1811〜1812年にギゾーは純粋に文学的な寄稿を4篇行い、1816〜1819年には純粋に政治的な寄稿を3篇発表した。そのうち2篇はシャトーブリアンの超王党派主義(ultracisme)に対する批判であったが、当時彼はすでに高級官僚として、自由派寄りの政府に近い立場にあった。