2023-01-01から1年間の記事一覧
今年はあとニ時間ほどで終わる。が、どうやら、私の人生はまだ終わらないらしい。除夜の鐘がなるまでは確定的なことは言えないが、多分、私の命は逝く年とともに尽きはしないようである。幸いなことである。とはいえ、余命を宣告されてはいないからといって…
27日の記事で話題にした小関智弘の『大森界隈職人往来』(岩波現代文庫、2002年。原本、朝日新聞社、1981年)には、その底本となっている同時代ライブラリー版(岩波書店、1996年)の「あとがき」が収録されている。その中の次の一節を読んで、本書の本文が…
東京の一部しか知らないように、東京近郊の中小都市のことも、せいぜいその名を知っているか、車や電車で通り過ぎたことがあるくらいで、その都市のほんとうの「顔」についてはほとんど何も知らない。 観光とは無縁な中小都市ともなると、そこに住んでいる親…
渡仏する以前は、生まれてこのかた、数年間を除いて、ずっと東京住まいでした。でも、どれくらい東京を知っているかというと、自分が生まれ育った地域以外についてはほとんど何も知らない、ということを、今回の東京滞在は気づかせてくれています。 変な言い…
特別な意図があって選んだわけではなく、ただ空港から近く、比較的安く、短期間ならそこそこ快適に過ごせそうという理由だけで選んだホテルに今いる。およそ観光には縁のない場所だ。昨晩九時過ぎにチェックイン、荷物を部屋に置いたらすぐにホテル内のレス…
島薗進氏の『ともに悲嘆を生きる』を読んでいて、「悼む」とはどういうことなのか、気になるようになった。同書には、天童荒太の小説『悼む人』とそれに基づく映画作品について数頁にわたる紹介と著者による考察が示されている。そこを読めば、小説と映画の…
島薗進氏の『ともに悲嘆を生きる グリーフケアの歴史と文化』(朝日選書)のなかにも「予期悲嘆」に言及されている箇所がある。そこでは、「相手が生きていても、すでに悲しみが始まっている」ことが「予期悲嘆」だとされている。ところが、そこに挙げられて…
昨日の記事で言及した「予期悲嘆」という言葉は、例えば、この医療関係のサイトでは次のように説明されている。 予期悲嘆とは、患者さんやその家族が死を予期したときに生じる正常な喪のことをいいます。予期悲嘆では、患者さんの没後に家族が経験するものと…
今週水曜日の「日本の文明と文化」の最後の授業では、二組のトリオと四組のデュオの発表を聴いた。タイトルはそれぞれ、「日本のポップと死生観」「『君の膵臓をたべたい』と死生観」「映画『おくりびと』の死生観」「喪の作業」「死生の儀式」「心中」であ…
今日の午前中の「近代日本の歴史と社会」の授業が前期最後の授業であったばかりでなく、私にとっては今年度最後の授業だった。授業内容は予定通りで特別な感慨もないが、これで来年九月の新学年度開始まで授業をしなくていいのかと思うと、やはり自ずと心身…
昨日の演習の後半、「動物にも人格性を認めることができるか」という第二の問いに各学生に答えてもらった。 欠席者のメールでの回答も含めて、十六の回答のうち、十五が「できる」だった。彼女ら彼らが挙げる根拠を一言でまとめると、「動物にもそれぞれ個性…
今日が修士一年の演習の前期最終回。後期は研究休暇のため演習は担当しないから、これが私にとって今年度最後の修士の授業であった。出席者は15名。先週に引き続き、事前に課題として与えておいた二つの問いに一人ずつ答えてもらった。 今日の記事では第一問…
悟りといふ事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思つて居たのは間違ひで、悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であつた。 正岡子規が『病牀六尺』にこう書きつけたのは明治三十五年六月二日のことだった。死の三ヶ月半前のことである。六月…
家族や身近な人や大切な人を失ったとき、悲嘆に暮れるのはいつの時代でも当然のことだったはずなのに、そして悲嘆に暮れる人たちにどう接すればよいのか、身近な人たちはちゃんと心得ていたはずなのに、近年「グリーフケア」という英語由来のカタカナ言葉を…
島薗進氏の『ともに悲嘆を生きる』(朝日選書、2019年)の第3章「グリーフケアが知られるようになるまで」のなかに、ポーリン・ボス(Pauline Boss)というアメリカの臨床心理学者の『あいまいな喪失とトラウマからの回復 家族とコミュニティのレジリエンス…
学生たちの口頭発表用の原稿を添削するとき、文法的には必要なく、内容理解にとっても誤解の余地のない箇所であっても、私は読点をかなり加える。なんのためかというと、彼らが原稿を読み上げるとき、比較的長い一文を一息に読まずに、一呼吸おく場所を示す…
「人のことをとやかく言う前に、まずてめえの心配しろ」と見識ある諸氏からどやされてしまうかも知れないが、授業で日本語の文章を一文一文構造に注意しながら読んでいてつくづく感じることがある。 高名なセンセイの場合でも、厳密に言うと辻褄が合っていな…
「日本の文明と文化」の授業の今学期最後の二回は学生発表に当てられている。日本人の死生観に関して学生たちが自分たちで選んだテーマについて日本語で発表する。昨日水曜日はその一回目だった。発表の条件として、単独発表は不可、二人ないし三人で発表す…
今日の修士一年の演習では、先週課題として与えておいた「生物多様性はなぜ守られなくてはならないのか」という問いに15名の出席者全員に一人一人日本語で答えてもらった。それぞれ表現のニュアンスには違いがあったにせよ、生物多様性が保全されなくてはな…
昨日、パリのフランス国立図書館から、来年5月24日に予定されている日本哲学についての研究集会での私の発表タイトルと要旨をまだ仮のものでよいから送ってくれとメールで連絡があった。 腹案はすでにいくつかあったのだが、大学や研究機関でのシンポジウム…
今日は半日、ある学術雑誌から依頼された査読に没頭。一文にもならないが、他に引き受け手がなくて私のところに回ってくることが多いから、原則、引き受ける。困ったときのナントカ、ってか。 が、自分たちの都合でかなりタイトな締め切りを要求してくるのは…
午前3時起床。すぐに改稿作業を再開する。といっても、文章を推敲するのではなく、編集者に指摘された箇所にふさわしい具体例を探すために、引っ張り出した数十冊の文献を渉猟するのが主な作業。なかなかこれといった例が見つからなかったが、こうして文献を…
今日は一日雨だった。ジョギングも休んだ。午後、買い物のために往復で2キロ半歩いただけ。 午前6時から午後3時まで、共著に収録される予定の原稿の改稿に没頭する。編集責任者の一人からの改稿要求がなかなか厳しく、短時日でそれに応えるのは無理と判断し…
前任校のことをときどき懐かしく思い出す。こっちも今よりは多少若かったし、新設学科の責任を一人で引き受けていたから、大変だったけれど、けっこう張り合いもあった。 海の物とも山の物ともつかぬ新設学科である我が学科に来てくれた学生たちにはできるだ…
昨日の授業では、映画『おくりびと』と青木新門の『納棺夫日記』(文春文庫、増補改訂版、1996年)を取り上げ、両者の間にある重要な差異を話題にした。 『納棺夫日記』を『おくりびと』の原作と紹介することは、作者の青木新門自身の意志からしてできない。…
「日本の文明と文化」という日本語のみで行う授業で、今学期後半、日本のテレビドラマや日本語の書物を通じて、「日本人の死生観」というテーマについて話してきた。話の合間にいくつかの質問を学生たちに投げかけ、それに対する答えを日本語(日本語では難…
島薗進氏の『日本人の死生観を読む』(朝日選書、2012年)は、「無残な死を超えて」と題された第5章で『戦艦大和ノ最期』の著者吉田満の死生観について詳しく論じている。そのなかに、沖縄特攻作戦をめぐっての艦上での将校間の激しい議論を最終的に治めた臼…
朝から雪がちらつく寒い日。昼過ぎには雪止む。路上には積雪なし。すぐにジョギングに出る。走っているうちに西空から薄日が射す。16キロ走る。 パリ・ナンテール大でのシンポジウムが終わり、今週は一息つくつもりだった。が、今朝になって10日までに改稿し…
いきなりだが、パスカルの『パンセ』の断章の一つ(S70,L36, B164)を掲げる。 Qui ne voit pas la vanité du monde est bien vain lui-même. Aussi qui ne la voit, excepté de jeunes gens qui sont tous dans le bruit, dans le divertissement et dans l…
昨日の記事では質問を受ける側の態度を話題にしたが、研究発表に対して質問する側であるときに私が心掛けているのは、制限時間内で発表者が言い足りなかったと思っているであろうところを補えるような質問をすることである。論点を明確に一つに絞り、発表者…