2014-04-01から1ヶ月間の記事一覧
2. 2 〈肉〉の基本的的性格 2. 2. 1 〈可視性 visibilité〉(1) 〈可視性〉は、見えないものと対立するものとしての見えるものだけがそれに属するのではない。ある「図」が描き出される「地」、立方体の隠れた面、ある物がその見えない側面とともにそこにお…
2. 1 〈肉〉の根本的性格 最初に、『見えるものと見えないもの』の中で繰り返し試みられる〈肉 chair〉の定義から、その根本的な性格を取り出してみよう。 すぐにわかることは、〈肉〉は、同書におけるメルロ=ポンティの現象学的存在論にとって、その「すべ…
2 — 〈肉〉の現象学的存在論の鏡の中の歴史的身体(承前) 西田哲学の思考の運動を、メルロ=ポンティの哲学的言語空間の中で展開させるという思考実験を行うにあたって、次の三つの作業仮説を立てる。(1)〈肉〉は、歴史的生命の世界を形成する〈素地〉で…
2 — 〈肉〉の現象学的存在論の鏡の中の歴史的身体 私たちがここで試みようとしているのは、西田哲学の思考の運動を、西田固有の用語から解き放って、西洋哲学のある哲学的言語空間の中で展開させることができるかどうかという思考実験である。しかし、それ…
1. 3 表現的世界の自己限定としての働く身体(4) 本稿第四章の前半部を構成する「1— 行為的直観の世界における身体」の三つの節で、西田の身体論・道具論・技術論をここまで見てきた。それらをここ前半部の終わりにもう一度簡単にまとめ直し、メルロ=ポン…
1. 3 表現的世界の自己限定としての働く身体(3) 我々が歴史的身体的に働くといふことは、自己が歴史的世界の中に没入することであるが、而もそれが表現的世界の自己限定たるかぎり、我々が行為する、働くと云ひ得るのである(全集第八巻四七頁)。 この引…
1. 3 表現的世界の自己限定としての働く身体(2) このように行為的身体を世界内の可動的観点として見るとき、〈見るもの-見えるもの〉でありかつ行為的・受容的身体の実存様態の二重の性格が自ずと明確になってくる。行為的直観の焦点として、私たちの行為…
1. 3 表現的世界の自己限定としての働く身体(1) 論文「論理と生命」は、最後期西田哲学の諸論文の中でも最も重要な内容を持った論文の一つである。私たちは、ここでもこの論文に主に依拠しつつ、「行為的直観」という西田哲学の中でも最も独創性に富んだ概…
1. 2 身体と世界との根本的関係(4) 道具を媒介とした身体と世界との弁証法的関係の問題に立ち戻ろう。西田の身体論と道具論とが重なり合う問題領域の特徴がよく表れている論文「論理と生命」の一段落の読解を通じて、この問題を今一度考えてみよう。まず、…
1. 2 身体と世界との根本的関係(3) 歴史的世界の中での意識の有り方を、最後期の西田哲学の論脈において、今一度明確にしておこう。 世界は、自らの内において自ら自身を見る。このテーゼに見られる世界の自己関係性は、自覚の基本構造である「自己が自己…
1. 2 身体と世界との根本的関係(2) 我々は我々の生物的身体から出立して物を道具として有ち、物を技術的に自己の身体となす、そこに技術的身体が構成される(全集第八巻三五頁)。 私たちの生物的身体が道具を介して技術的身体へと変容する、身体の技術的…
1. 2 身体と世界との根本的関係(1) 人間は感受能力によって自分を取り巻く事物に対して受容的な関係に置かれるが、この能力は、行為する身体に与えられた直観的な受容性からなっている。人間は、その受容的な身体と共に生きているかぎり、世界における他の…
自己身体の根源的受容可能性(2) 我々の身体が生ける存在として行為し始めるやいなや、〈見るもの-見えるもの〉でありかつ〈働くもの-受容するもの〉であるという二重の両義性が、我々の身体が生きる世界における現実性となる。この二重の両義性こそが、…
自己身体の根源的受容可能性(1) 我々の身体は、見えるものの世界において、自己自身と他の見るものらにとって見えるものであると同時に、何ものかを見るものである。それは、他の諸々の見えるものの間にある一つの見えるものであるかぎりにおいて、一つの…
「見るもの-見えるもの」である身体と「外から見られる」身体(2) メルロ=ポンティにおいて重要なのは、現象的身体あるいは自己身体が自己自身に見えるものとして現れるその固有の仕方である。私の身体は、私にとって見える現象として恒常的に生きられてい…
今日から第四章に入る。この章では、最後期西田の身体論とメルロ=ポンティの身体の現象学とを詳細に比較検討していく。この両者の身体論には、一見して見て取りやすい類似点・親近性があるために、この問題を扱った先行研究も少なくない。それだけに、それら…
4 — 「自覚」と「内感」との交点、そして乖離(2) しかし、また、西田の「自覚」とビランの「内感」とが最も接近するまさにその点において、両者の間の決定的の相違点も明らかになる。 「自覚」と「内感」とは、いずれも内在的自己経験に与えられた名であり…
4 — 「自覚」と「内感」との交点、そして乖離(1) すでに繰り返し指摘したように、ビランによって明るみにもたらされ、精細に記述された「自己身体の内的空間」は、西田の注意をまったく引いていない。この西田の「無関心」から帰結として引き出せそうなの…
3— 「習慣の世界」― 行為的直観の立場から捉え直された能動的習慣(3) ここで一言補足しておく。論文「行為的直観の立場」の第四節最後の数頁に展開されている習慣論は、ビランのそれによりもラヴェッソンのそれに近い。事実、西田は、同節の末尾の補足で…
3— 「習慣の世界」― 行為的直観の立場から捉え直された能動的習慣(2) メーヌ・ド・ビランは習慣を能動的と受動的とに区別して居るが、行為的直観によって一つの世界が自己自身を構成すると考えられるかぎり、それは永遠の今の自己限定として、そこに永遠…
3— 「習慣の世界」― 行為的直観の立場から捉え直された能動的習慣(1) 本節で考察の対象となるテキストは、一九三五年に執筆、発表された「行為的直観の立場」である。その当時の西田の哲学的立場がきわめて明確に示されているこのテキストを読むとき、場…
2— 「内的人間の人間学」― 場所的論理のからのメーヌ・ド・ビランへの評価と批判(4) 我々の自己はメーヌ・ドゥ・ビランの云う如き能動的感覚に即して考えられるのである。習慣によって益々明となるという能動的感覚という如きものに於ては既に自己が含ま…
2— 「内的人間の人間学」― 場所的論理のからのメーヌ・ド・ビランへの評価と批判(3) 本節で取り上げる第三のテキストである論文「私の絶対無の自覚的限定というもの」は、田邊元が「西田先生の教を仰ぐ」(『哲學研究』第一七〇号、1930年五月)におい…
2— 「内的人間の人間学」― 場所的論理のからのメーヌ・ド・ビランへの評価と批判(2) 本節が考察対象とする第二のテキスト「場所の自己限定としての意識作用」において、西田は、場所の論理に基いて作用としての意識を定義している。作用としての意識を対…
2— 「内的人間の人間学」― 場所的論理のからのメーヌ・ド・ビランへの評価と批判(1) 西田は、一九三〇年に書かれた小論文「人間学」、同年に執筆、発表された論文「場所の自己限定としての意識作用」、そしておそらく同年末に執筆され、翌年発表された論…
1— 「能動的習慣」―メーヌ・ド・ビランへの関心の第一の焦点(3) しかしながら、ビランにおいては、この分離可能性は、能動的自己がその感受する対立項からまったく独立にただ純粋な作用として自己自身に現れるということを意味してはいない。自己は、原因…
1— 「能動的習慣」―メーヌ・ド・ビランへの関心の第一の焦点(2) 西田がビラン固有の概念に言及しているテキストとして、次に注目されるのが、一九二四年に発表され、後に『働くものから見るものへ』(一九二七年)の前編に収録された論文「物理現象の背後…
1— 「能動的習慣」―メーヌ・ド・ビランへの関心の第一の焦点(1) メーヌ・ド・ビランの名が西田のテキストの中に初めて現れるのは、『善の研究』の出版の前年一九一〇年であり、二度目に現れるのは一九一四年であるが、どちらにおいても、ベルクソンにおい…
本章で、私たちは、デカルト、パスカル、ベルクソンそれぞれの哲学とはまた違ったフランス哲学のパースペクティヴから西田哲学の根本問題の在り処への接近を試みる。そのために、まず、西田が、パスカルによってその基礎が置かれたと考える「フランス哲学独…
昨日まで約一ヶ月間に渡って、第一章と第二章とを連載してきた。第一章では、西田哲学の全展開過程をある一つのパースペクティヴの中で捉えることを試み、第二章では、西田哲学の方法論を西田自身のテキストから引き出すことを試みた。この二つの章は論文の…