内的自己対話―川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。

2019-09-01から1ヶ月間の記事一覧

「クールJAPAN」とか言ってる場合かよ ― 失望の果てに光明は見えるのか

なにやら喧嘩腰のタイトルをご覧になって怪訝に思われた方もいらっしゃるかと思う。今日の記事は、諸方に差し障りがないように、当事者以外にはなんのことかわからないような言い方になってしまうことをまずお許しねがいたい。今私がどこでこれを書いている…

明確な方法論に基づいた近世・近代再考、そして共生社会構築のためのヒント

大橋幸泰の『潜伏キリシタン』の序章には、同書で採用された三つの方法が明確に述べられている。 第一が、呼称への注目。キリシタンがそれぞれの時代にどのように呼ばれていたかを見ることで、その呼称を使用する人びとが対象に対してどのような意識と評価を…

現代の息苦しさの原因を見極め、未来を希望あるものとして展望するために ― 大橋幸泰『潜伏キリシタン』

教科書的に通り一遍に近代史を駆け足で話すのではなく、一定数の問題に限定し、それらの問題それぞれが開く視座から日本近代史を中世末期から現代まで見通すパースペクティブの中で読み直す。私が今年の講義で試みていることである。そのために参照すべき日…

日本と西洋のファースト・コンタクト ― 「キリシタンの世紀」(下)

今日の授業は、前半は順調、後半も永原慶二著『戦国時代』を主軸とした展開までは、読ませたいテキストはほぼ予定通り提示できた。残り四十分となったところで渡辺京二著『バテレンの世紀』に移る。この時点で、大橋幸泰著『潜伏キリシタン』に依拠した展開…

日本と西洋のファースト・コンタクト ― 「キリシタンの世紀」(上)

明日の授業は、日本がはじめて西洋と出遭った1543年から1639年までのいわゆる「キリスト教の世紀」がテーマである。 日本とヨーロッパとの「ファースト・コンタクト」というテーマは、それ自体がきわめて重要なテーマであり、私自身それに大変強い関心を持っ…

後からやってくる研究者のチャレンジを静かに待っている偉大な研究者

昨日の記事の続きで、本郷の解説から摘録しておく。 戦後の歴史研究者のうち、歴史観を語れる中世史家として誰もが認める人として、本郷は以下の五人を挙げる。「幅の広い学問を統合し、一人の武士や庶民から社会像を構築した」石井進、「文字史料の限界に疑…

中世史学の太い基本軸を作った歴史家

戦国時代を正面からバランス良く網羅的に扱った名著として知られる永原慶二の『戦国時代』が講談社学術文庫の一冊としてこの七月に刊行された。原本は、一九七五年に小学館から刊行された『日本の歴史1 4 戦国の動乱』を基に、二〇〇〇年に増補改訂のうえ小…

歴史における連続性と非連続性との関係は、現代の観点に応じて変化する

昨日の記事で引用した内藤湖南の見解に言及している若手研究者の著書として與那覇潤氏の『中国化する日本 日中「文明の衝突」一千年史』(単行本、文藝春秋社、2011年;増補版、文春文庫、2014年)も挙げることができます。 與那覇氏が言及しているのは、192…

日本の « modernus » を内在的観点から捉え直す試み

現代の日本の歴史研究者たちが「近世」と「近代」という時代区分の問題を再考する際にしばしば引用するテキストがあります。それは気鋭の若手研究者たちの場合もそうです。そのテキストとは、東洋史家の内藤湖南が大正十年(1921)行った講演「應仁の亂に就…

日本近代史への遠き道のり

日本の歴史の時代区分として広く行き渡っている名称に「近世」と「近代」があります。前者の定義は、例えば、『日本国語大辞典』によると、「古代、中世のあとにつづき、近代以前の時期、安土桃山時代、江戸時代を指す。[中略]広義には近代をも含むことが…

空き教室を求めてキャンパスをさまよう

今学期の授業が始まって、二週目が終わったところだ。学生が教室に入りきれない授業の教室変更など、毎年この時期はバタバタする。私の金曜日の授業も、教室が小さすぎて、変更を強いられた。ところが、適当な教室が空いておらず、二時間の授業を一時間ずつ…

小さな幸せ日記 ― お湯の出る暮らしのありがたさ

東京での夏休みを終えて帰国してから今まで、かれこれ四週間近く、ずっと黙っていたというか、このブログの話題にはしなかったことがあります。それは、隠しておきたかったからというわけではありません。むしろ人様にとってはどうでもいいことだから、書く…

腹立ち日記

今日、夜帰宅したとき、かなり気分が悪かった。というか、頭にきていた。 昨日は、授業その他一日すこぶる順調だった。今日も、午後の他学科の学科長との話し合いは実りあるものだったし、その後の修士の演習も日本の大学からの学生さんたちを迎えて楽しくで…

枯れ際にこうべを垂れる白薔薇の気品

切り花も、花弁が生き生きと開き、窓際で太陽光を受けて輝いているときが美しい。でも、ここ二週間、贈られた十本の白薔薇を、花瓶一つない我が家にあったトマトジュースの空き瓶に活けて、普段は殺風景な書斎の机上に置いて眺めていると、次第に萎れ、乾き…

「信じる」の日常言語的用法がもたらす、一見すると逆説的な帰結の説明 ― 昨日の記事の補足として

昨日の記事で問題にした「信じる」という言葉の用法について、その短すぎる説明が引き起こしたであろう誤解を解いておくために、一言補足する。 昨日の記事で、「信じる」と「知る」との関係を問題にしたとき、それはあくまで日常言語での一般的用法のみを前…

「ただ非信者だけが、信者は信じている、と信じている」― ある学生からの質問をめぐって

「近代日本の歴史と社会」の第一回目の「哲学」の授業があった日の夕方、教室で最前列に座って熱心にノートを取っていた学年で最優秀の学生から質問のメールが届いた。 その質問は、昨日の記事で話題にしたヴァレリーの講演の次の一節に関してであった。 On …

歴史的事実の絶対化は、歴史の死に他ならない

世阿弥の『花鏡』からの一節について、昨日の記事で略述したようなことを授業で話してから、再び二十世紀のフランスに立ち戻った。ポール・ヴァレリーが1932年に高校生を前に行った講演「歴史について」(« Discours de l’histoire prononcé à la distributi…

「離見の見」としての歴史認識 ― 未来の観客の前で現在を舞う役者として生きるために

今日の授業では、昨日の記事で引用したマルクス・アウレリウスの書簡とそれについての Vesperini のコメントを紹介した後、十五世紀の日本へと飛んだ。世阿弥の『花鏡』の中の「離見の見」の一節のルネ・シフェールによる仏訳を読ませた。古典芸能としての能…

古代ローマの一青年の「近くて遠い」眼差しから始まる今年の日本近代史の講義

明日が「近代日本の歴史と社会」という講義の今年度第一回目の授業である。毎年、第一回目は、実質的に「哲学」の授業である。「歴史とは何か」「歴史を学ぶことにどんな意味があるのか」という問いを立て、およそ近現代日本とは関係なさそうなテキストを手…

世界の終わりの明晰な認識の上に、私たちは新しく強い思想を開くことができるのか ― 見田宗介『現代日本の感覚と思想』(一九九五年)

竹内整一の著書にしばしば引用される見田宗介のもう一つの著作は『現代日本の感覚と思想』(一九九五年)である。特に以下の一節である。 前世紀末の思想の極北が見ていたものは〈神の死〉ということだったように、今世紀末の思想の極北が見ているものは、〈…

滞仏丸二十三年

今年もまた無事この日を迎えた。1996年9月10日に初めてフランスの地に降り立ってから丸二十三年。二十年を過ぎてからは、一年ごとに特別の感懐があるわけではない。この一年に何か大きな出来事が我が身に起こったわけでもないし、身近な人にもそういうことは…

「今、ここにある一つ一つの行為や関係の身におびる鮮烈ないとおしさへの感覚を、豊穣にとりもどすこと」― 見田宗介『気流の鳴る音』から

竹内整一の著作は、授業でときどき参照する。手元に紙の本として持っているのは、『ありてなければ 「無常」の日本精神史』(角川ソフィア文庫、2015年)と『日本思想の言葉 神、人、命、魂』(角川選書、2016年)の二冊。電子書籍版では、『花びらは散る 花…

一杯のワインが与える奇跡的な感覚、あるいは朝の陽光がもたらす世界の無償の美しさについて ― ジョルジュ・バタイユ『至高性 呪われた部分』に至る読書記録

バタイユの『至高性』の中の、ある奇跡的な要素が含まれたものとしての「一杯のワイン」についての一節に行き当たるまでの読書のプロセスを、ちょっとまわりくどいが、備忘録的に記しておく。 加藤典洋は、『人類が永遠に続くのではないとしたら』の中で、福…

「ただ一度のみ」、それが、人間が人間を生きる理由 ― リルケ『ドゥイノの悲歌』第九悲歌より

『世界と人類の終わり』のもう一つのエピグラフは、リルケ『ドゥイノの悲歌』第九悲歌の冒頭十七行の仏訳である。まずドイツ語原文、次にその仏訳、最後に片山敏彦訳を掲げよう。 Warum, wenn es angeht, also die Frist des Daseinshinzubringen, als Lorbe…

存在と非存在との間の選択不可能性 ― レヴィ=ストロースにおける神なき時代の西欧的無常観

昨日の記事で取り上げた『世界と人類の終わり』という本には、エピグラフとして、レヴィ=ストロース『神話論理』第四部『裸の人』の結語の最後の段落の三分の二くらいとリルケの『ドゥイノの悲歌』第九悲歌の一部とが引かれている。今日の記事では、レヴィ…

『世界と人類の終わり』― 終末論的言説の系譜、聖書からフクシマまで、そして現代のエコロジー的言説へ

月曜日の発表の準備中に、Le souci de la nature. Apprendre, inventer, gouverner, sous la direction de Cynthia Fleury et Anne-Caroline Prévot, CNRS Éditions, 2017 という論文集を読んでいて、その中の Hicham-Stéphane Afeissa という人の論文 « La …

地球・大地・世界、あるいは地球の住まい方 ― ミッシェル・リュソー『世界の到来』

月曜日の発表では、「大地への回帰」というテーマをめぐって提起する問題をできるだけ明確に定式化するために、Michel Lussault, L’avènement du monde. Essai sur l’habitation humaine de la Terre, Seuil, coll. « La couleur des idées », 2013 が提案す…

空を眺めるとき ― ブリュノ・ラトゥール『ガイアに向かって』

月曜日の発表ために参照した本の中の一冊に Bruno Latour, Face à Gaïa, Huit conférences sur le nouveau régime climatique, Les Empêcheurs de tourner en rond/La Découverte, 2015 がある。八つの講演を集めた講演集で、その第七講演 « Les états (de n…

新大学年度初日

今日が2019-2020年大学度の初日でした。午前中は、東京恵比寿の日仏会館とストラスブール大学の一会議室をテレビ会議で繋いでのセミナーでした。午後は、新入生オリエンテーションでの学科紹介、それに引き続いて学科会議と、午後5時過ぎまで、昼食を取る…

明日の発表「自然の創意」のためのイメージ・トレーニング

明日の発表の準備はほぼ終わりました。より正確に言うと、例によってパワーポイントは念入りに仕上げましたが、発表原稿は、結論部分以外、一行も書いていません。というか、最初から原稿は書かないつもりでいました。いや、もうちょっと正直に言うと、過去…