2014-02-01から1ヶ月間の記事一覧
ビランの「日記」は、ある一つの精神の自伝として読むことができる。 このテーゼを今回のメーヌ・ド・ビランの日記を読む一連の記事の締め括りとして、掲げておきたい。今日の記事では、このテーゼがどのような意味で主張されているのかを明確にするために、…
一つの〈作品〉については、そのジャンルを問わず、その完成ということを一応語ることができる。したがって、その事実的な未完成ということも語りうる。もちろんこの問題はそう簡単に片付けられないことは、例えば、宮沢賢治の作品群を考えてみればわかる。…
昨日の記事の最後に引用した一八一五年六月一二日の日記の一節に続けて、ビランは、自分の精神に欠けている「ある道徳的感情」について以下のように記す。 自分自身の裡に感じる種々の変化と空虚が、それらが私とともにあるものでありながら、私にある恒常的…
ビランは、フランス革命がもたらした諸々の悪習が、フランス社会のすべての構成要素をほとんどすべてバラバラに分断してしまい、一つの有機的な全体であったものを数量的に取り扱われうる相互に無関係・無関心な個体の集合にまで解体してしまったことを一八…
ビランは、哲学者としてよりもむしろ政治家として同時代人たちには知られていた。穏健な共和派と頑固一徹な王党派との中間の政治的立場に立つ中道右派を代表する政治家の一人であり、「中道右派こそフランスの真の世論を表している」という確信には生涯揺る…
アンリ・グイエは、そのビラン研究『メーヌ・ド・ビランの回心』(Vrin, 1947)の中で、「ビランはたった一冊の本の人であり、そしてその本をけっして書かなかった」と言う(六頁)。この一言は、確かに、ビランのテキストの特異性をある一面からよく捉えて…
死の前年に手帳に書き留められた断片の一つに、ビランがなぜ「日記」をこの十年間つけ続けてきたのか、その理由を見出すことができる。 もしこの日記が公開されるとしたら、哲学者たちのために書いたわけではないから、彼らには軽すぎると見え、面白おかしい…
ビランの哲学的探究のいわば通奏低音をなしているのは、自己の存在を前にしての、より正確に言えば、疑うことのできない内的実感として与えられている自己の存在の事実への驚嘆の念である。死の九ヶ月前の日記にビランはこう記している。 子供の頃からもう、…
今、私の目の前には、ビランの『日記』(全三巻)が置かれている。この版は、アンリ・グイエの注意深く用意周到な編纂になるもので、一九五〇年代半ばにスイスの出版社から刊行された。簡素なデザインの薄緑の表紙も本体の紙質も、当時の出版事情を反映して…
哲学者がつける日記にもいろいろ種類があるが、その日記それ自体が自らの哲学を表現する重要な媒体だった哲学者たちがいる。そのようなフランスの哲学者たちの中で筆頭格なのがメーヌ・ド・ビラン(1766-1824)だと私は思う。 生没年を見ればわかるように、…
〈花〉、それはある時ある所に咲く時分の花の影に本来的に見えないものとして自らの姿を隠すものであると同時に、その時その所に咲く花をそのように咲かせるところのものである。永遠の現在として生きられた〈今〉において舞台の上に無限に多様な形姿を立ち…
それでは、「花」はどこにどのように咲くのか。 ただ、煩はしくは心得まじきなり。まづ、七歳よりこのかた、年来の稽古の条々、物まねの品々を、よくよく心中に当てて分ち覚えて、能を尽し、工夫を究めてのち、この花の失せぬ所をば知るべし。この、物数を究…
これ、人々心々の花なり。いづれを真にせんや。ただ時に用ゆるをもて、花と知るべし。 これが結論となっている「花伝第七別紙口伝」終わりの方の一節全体を読めば明らかなことは、それ自体においてつねに自己同一的なただ一つの「理想的な花」などというもの…
昨日の記事の終わりに引用した『風姿花伝』「花伝第七別紙口伝」の一節をもう一度引く。 しかれば、芸能の位上がれば、過ぎし風体をし捨てし捨て忘るること、ひたすら花の種を失ふなるべし。その時々にありし花のままにて、種なければ、手折れる枝の花のごと…
昨日の記事で最後に引用した「花伝第七別紙口伝」の一節をもう一度引く。 また云はく、「十体を知らんよりは、年々去来の花を忘るべからず。」年々去来の花とは、たとへば、十体とは物まねの品々なり。年々去来とは、幼なかりし時の粧ひ、初心の時分の態、手…
「時分の花」は、溌剌とした若さ、持って生まれた才能、自発的な創意などが役者にあたえる魅力による。その花は、様々に異なった視覚的価値、より一般的に言えば、知覚されうる価値とともに現れる。しかし、それらの価値は一時的なものであり、儚いものであ…
「年来稽古条々」十二三歳の項では、とりわけ愛らしい姿で、声も美しく、しかも芸が上手な児ならば、何をやらせてもよかろうと認めた上で、その年頃の芸について、次のように注意する。 さりながら、この花は真の花にはあらず。ただ時分の花なり。 このあま…
『風姿花伝』における〈花〉とは何かという問題については、あるいは世阿弥の能楽論全般における〈花〉の位置づけと意味の推移については、すでに数えきれないほどの研究があり、もう論じ尽くされているとも言えるだろう。言うまでもないことだが、素人の私…
『風姿花伝』の〈花〉をめぐる哲学的考察に入る前に、この芸能論の古典を読むにあたって参照したテキスト・注釈書を挙げておきたい。それぞれの初版の出版年順に挙げる。小西甚一『世阿弥集』(一九七〇年に筑摩書房から出版された〈日本の思想〉全二十巻の…
昨年の8月25日の記事「自由と形式 ― 独仏間の文化的差異について ―」の中で、ドイツにおける教育が「自由から形式へ」という方向性で特徴づけられるとすれば、フランスにおける教育は「形式から自由へ」という方向性で特徴づけられ、ドイツ文化とフランス文…
昨日の記事で引用した丸山眞男の「好さんとのつきあい」の中に出てくる「寛容」について、私見を述べておきたい。ただ、昨日の一文だけを取り上げて丸山の「寛容」についての考えを批判するのは乱暴な話以外の何物でもなく、議論としても実りあるものになり…
一昨日昨日と丸山眞男の竹内好についての文章 ― あるいは談話といったほうがいいかもしれないが ― を取り上げようと思うきっかけになったのは、鶴見俊輔『竹内好 ある方法の伝記』の「あとがき」に引用されていた丸山の談話「好さんとのつきあい」を読んだこ…
鶴見俊輔の『竹内好 ある方法の伝記』でも、竹内好の日記は度々引用あるいは参照されているが、それは、竹内好の思想家としての形成過程を知るための第一級資料であるばかりでなく、戦前・戦中・戦後を生き抜いた一つの類稀な人格による同時代の記録としてき…
昨日までの鶴見俊輔『竹内好 ある方法の伝記』の記事を書いているとき、同書の「あとがき」に丸山眞男の談話「好さんとのつきあい」(『丸山眞男集』第十巻)が引用されていて、それがとても印象に残ったので、手元にある『丸山眞男集』の中から他にも竹内好…
今日の記事で六回目となる鶴見俊輔『竹内好 ある方法の伝記』の読書記録も今日でひとまず締め括りとする。その締め括りとして、鶴見が竹内の論文「方法としてのアジア」に言及している箇所を取り上げる。この論文には、武田清子編『思想史の対象と方法』(創…
戦後の竹内の思想形成の歩みに触れた鶴見の評言を「大東亜戦争記念の碑」と題された章から引く。 一つの生を歩いていく限り、生きる力の一部分として転形をさけることは出来ない。歩く途上で、偏見だけで歩き続けられないのを知って、偏見をただす努力はする…
鶴見は、『竹内好 ある方法の伝記』の全体の半分近い百頁を割いて、戦中から戦争直後にかけての竹内の思索と行動を、引用を重ねながら丹念に追っている。そこには、戦後の竹内の思想的立場と方法的自覚を理解するために重要な鍵がいくつか見いだされる。特に…
「大東亜戦争と吾等の決意」というタイトルの文章が『中国文学』第八十号に無署名で発表されたのは、太平洋戦争勃発の翌月一九四二年一月のことであった。この宣言文は、「中国文学研究会」の同人会にその案が諮られた上で、竹内好によって執筆された。執筆…