内的自己対話―川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。

2017-01-01から1ヶ月間の記事一覧

「砂漠に住まう者」の徒然なる読書日記のはしがきにかえて

最近の拙ブログの記事は、その内容も写真もまったくお座なりで、継続性も計画性も一貫性もありません。そのことは記事を書き写真を撮っている本人もよく自覚しているところです。 何を書こうが、何を撮ろうが、そして何を記事としてアップしようが、人様に迷…

もう一つの近代の超克 ―「国語」の「主体」とその運命 ―

この週末は、三月下旬にストラスブール大学と CEEJA とで三日間に渡って開催される学会での発表要旨作成に費やした。先程その発表要旨を学会運営責任者の同僚に送ったところである。学会のテーマは、両大戦間の日本社会の「近代」再考。学会での発表言語は、…

ウィトゲンシュタイン『哲学的書簡集』仏訳版

2015年にGallimard 社の « Bibliothèque de philosophie » 叢書の一冊として、Ludwig Wittgenstein, Correspondance philosophique が出版された。九百頁を超える浩瀚な同書には、ウィトゲンシュタインがラッセルのもとで哲学研究を始めた当時のラッセルとの…

F. ブローデル『文明の文法』と日本史暗記ラップ

今週の火曜日のことであった。古代史の授業を終えて教室を出ようとすると、毎週のように質問してくる女子学生が、「世界の諸地域を横断的に比較している歴史の教科書はありませんか」と聞いてきた。この学生、前期の期末試験の論述問題の答案が抜群の出来で…

歴史的想像力について

古代史の講義の中で、いわゆる歴史的事実はいかにして構成されるのかという問題を学生たちに考えてもらうために、毎年引用するテキストがある。それは、ポール・ヴァレリーが1932年に高校生たちを前に行った講演 « Discours de l’histoire » の一部である。…

Aqua vitae(アクア・ウィタエ)あるいは命の水でこの寒い冬を乗り切る

ふと、個人(って私のことですが)年間アルコール消費量をリットルで試算してみたのですが、少なく見積もっても月平均で15リットル、したがって年間で180リットルということになりそうです。一升瓶に換算すると100本ということですね(それが全部並んでいる…

アニメ『舟を編む』を観ながら、辞書愛を語る

フランスにいながら日本で公開されている邦画をリアルタイムで観ることは必ずしも可能ではないのですが、公開から何年か遅れでもネット上で観ることができるようになるのは本当にありがたいことです。もちろん著作権を蔑ろにした違法なアップのケースが圧倒…

厳冬、零下の外気の中、屋外で泳ぐ快感

今年に入ってからヨーロッパは寒波に襲われていて、ストラスブールも近年では一番寒い冬なのではないかと思います。朝晩は零下十度くらいまで下がります。日中も零下のまま。今日は、曇天下、午前中、粉雪がちらつく中、自転車で大学に向かいました。十分も…

永遠に始源へと帰還しながら自己自身と出会うこと ― ヴァイツゼッカー『ゲシュタルトクライス』(九)

ヴァイツゼッカー『ゲシュタルトクライス』の最終章の摘録を始めたときは、せいぜい四、五回、と思っていた。それが今日でもう九回になる。野球とは何の関係もないけれど、今日の記事を同書の摘録の最終回とする。それはもう十分だと考えてのことではなく、…

生命の方法としてのゲシュタルトクライス ― ヴァイツゼッカー『ゲシュタルトクライス』(八)

存在的属性には、「ある」か「ない」か、「必然的にある」か「偶発的にある」か、「持続的にある」か「束の間ある」かなどの違いはあるにしても、これらの属性だけで私たちの人生の出来事が構成されているわけではもちろんない。 それらの存在的属性に対置さ…

「できる」は「したい」に限界づけられている ― ヴァイツゼッカー『ゲシュタルトクライス』(七)

転機において、「したい」と「ねばならぬ」の抗争の次に来るのが、「しうる」「しえない」「すべきである」「してもよい」などの発生論的条件である。 例えば、極度の辛苦や疲労に打ちひしがれているとき、私たちは「もうこれ以上できない、無理」と溜息をつ…

「したい」と「ねばならぬ」が抗争する転機の構造 ― ヴァイツゼッカー『ゲシュタルトクライス』(六)

人間の存在構造がロゴスよりもより深い次元でパトス的であるとしても、いつもそのことが顕在的に私たちに示されているわけではない。むしろ、自分では冷静に「理性的に」判断して行動しているつもりでも、その判断を動機づけているのは、実のところ、自分で…

生物は、存在せねばならぬはめにおちいっている ― ヴァイツゼッカー『ゲシュタルトクライス』(五)

死すべき存在であることが生きるものに与える基礎的色調が受苦であるというような「感情的」認識は、生物学的研究には不必要であるかも知れない。 しかし真の研究者の道を辿る者、また本書における探究の歩みにこれまで従って来た者は、このようなペシミズム…

死、それは生命の優位を保証する最も確実な事実― ヴァイツゼッカー『ゲシュタルトクライス』(四)

聳え立つ山脈の威容を目の前にして、私たちは崇高の念に打たれ、言葉を失うことがある。と同時に、それに対する自己の存在の頼りなさ、生き物の命のはかなさを思い、胸を締めつけられるような感情に襲われることもある。生命は、あたかも永遠の自存の形象で…

有機体とその環界との鏡像的対応 ― ヴァイツゼッカー『ゲシュタルトクライス』(三)

ある食べ物が私たちの目の前に置かれているとしよう。それを見て、そしてその匂いを嗅ぐ。そのとき、その匂いがまさにその食べ物から発している匂いであり、それが視覚からの情報と協和的であるとき、私たちは、その知覚にしたがって、それを食したり、ある…

自ら常に新たに生命の運動の中へ巻き込まれながら ― ヴァイツゼッカー『ゲシュタルトクライス』(二)

生物学的行動を反射生理学的説明に還元できないのは、事物の本性からしてそれが不可能だからだということをヴァイツゼッカーは神経生理学的研究によって明らかにした。 心と物的自然との外面的-実体的な二元論を主体と客体の対極的に結合した一元論に置き換…

行為の系列の生成 ― ヴァイツゼッカー『ゲシュタルトクライス』(一)

昨日まで五回に渡って摘録してきたヴァイツゼッカー『生命と主体』と同時に2001年12月に購入した『ゲシュタルトクライス』(みすず書房、新装版、1995年)は、今版元品切で、アマゾンでは古本に五万円近い法外な値が付けられている。ずっと売らずに持ってい…

間モナド的な出会いの「あいだ」― ヴァイツゼッカー『生命と主体』(承前)

「モナドの場所的な多重化」と題された短章(第30章)の中でこの多重化を説明している箇所をまず引用しよう。 モナド間の出会いでは、ある主張とそれに反対する主張、引力と斥力、愛と憎しみ、合体と分離が起こってくる。つまり出会いのなかで多重化が起こり…

医学自身が病気になり、病気の原因になるとき ― ヴァイツゼッカー『生命と主体』(承前)

ヴァイツゼッカー『生命と主体』についての最初の記事をアップしたときは一回だけのつもりだったのだが、今回同書を読み直しているうちにもう少し紹介したくなった。それは、しかし、上から目線で「これくらい知っておかないとね」というような不遜な気持ち…

病気の二面性 ― ヴァイツゼッカー『生命と主体』(承前)

ヴァイツゼッカーは仏語にはほとんど訳されていない。1958年に出版されたミッシェル・フーコーとダニエル・ロシェによる『ゲシュタルトクライス』の仏訳(Le cycle de la structure, Desclée de Brouwer)は、もう長いこと絶版のままで、古本市場にもほとん…

能動的で生産的な読解作業へと読者を誘う一書 ― ヴァイツゼッカー『生命と主体』

昨日の記事で取り上げたヴァイツゼッカー『生命と主体』は、本文が二百頁に満たない小著だが、内容はけっして易しくはない。しかし、著者の医学的人間学の要諦を把握するための手掛かりはいたるところに与えられている。本書を構成する二編のうち、「ゲシュ…

増殖する概念ネットワーク ― ゲーテ・ヴァイツゼッカー・ウィトゲンシュタイン、そしてシモンドン・西田・三木

昨日日本から届いた和書の中にヴァイツゼッカー著『生命と主体 ゲシュタルトと時間/アノニュマ』(木村敏訳・註解、人文書院、1995年)がある。奥付を見ると、1996年7月25日初版第二刷とある。フランス留学直前になる。しかし、当時この本を買ったとは考えに…

懐かしき本たちとの再会

年末年始の帰国中にこちらに発送した蔵書の一部が今朝届いた。小型の段ボール箱で三つ。日本に残してあった蔵書の二十分の一にもならない。送る前には選択に随分迷った。大半が仏語の本だが、若干英語の本もある。日本語の本で今回届いたのは、かねてから手…

窓前の雪景色を眺めながら

フランスにはここ数日寒波が襲来しており、昨日は最低気温が零下8度、最高気温も零度以下の真冬日だった。今日は朝から雪。書斎の窓前の樹々はすっかり雪化粧。ベランダに出て、写真を撮る。気温は昨日よりは若干上がったようだが、やはり冷え込みは厳しい。…

日本古代史、その傾向と対策、そして予想問題

昨日午前中の日本古代史の講義が前期最後の学部の授業でした。その前夜にストラスブールに帰り着いたばかりでしたが、その夜は結局一睡もせずに授業の準備をして、冷たく透き通った氷点下の青空の下、キャンパスへと自転車を走らせました。耳がすっかり隠れ…

CA礼讃 ― 空飛ぶ華のプロフェッショナリズム

昨日の帰りの便では、座席が中央非常口のすぐ後ろ、前に座席のない三座席の真ん中で、脚が自由に伸ばせるのはとてもよかったのですが、左右両側から巨神兵のようなスペイン人父娘に挟まれる格好になり、それにはちょっと窮屈な思いをしました。感じの良い物…

搭乗便を待ちながら

先ほど、搭乗手続き、所持品検査、パスポート検査を終え、今は搭乗ゲート脇のソファに腰掛け、搭乗便を待っています。搭乗手続きカウンターで預けた二つのスーツケース(そのうちの一つの中身はすべて書籍)は、どちらも上限の23キロを僅かに上回りましたが…

真理は汝らに自由を得さすべし ― 時を超えて響く真の言葉

今回の帰国中に蔵書を整理していて、白い扉が付いた作り付けの戸棚の中から、ガラスで保護された額に入った一枚の色紙とその色紙に揮毫された方の写真が入ったやはりガラス張りの額が出てきた。その色紙に記された言葉は、「真理は汝らに自由を得さすべし」…

一緒に食べることは共に生きること ― convivialité について

昨晩は、妹夫婦が住まう元実家でお隣の従兄・従姉の家族と一緒に新年会。私も含めて十人の大人と再従兄夫婦の生後三ヶ月の赤ちゃんが集まった賑やかで楽しい団欒の時であった。 料理を囲んでのこのような団欒のことをフランス語では « convivialité » (コン…

麗らかな新春の陽光の中に揺蕩う正月気分を味わう

フランスには正月気分はない。今年は三日火曜日から授業再開である。私は五日木曜日夜にストラスブールに戻り、翌六日金曜日午前九時からの日本古代史の講義が前期に行う学部の授業の最後である。火曜日の修士二年の演習の筆記試験と木曜日の修士合同演習は…