内的自己対話―川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。

2014-01-01から1ヶ月間の記事一覧

鶴見俊輔『竹内好 ある方法の伝記』を読みながら(その二)― 「偏見はたのしい」

昨日の続きで、『竹内好 ある方法の伝記』から、印象づけられた或は気になる箇所を摘録し、それに若干の感想を加えていく。 戦中、中国そして日本で、竹内は何人かの中国人作家たちとの交友を通じて、日本人と中国人の在り方について思いを巡らす。その時期…

鶴見俊輔『竹内好 ある方法の伝記』を読みながら(その一)― 北京留学

先週火曜日21日のパリ第七大学研究集会から早一週間以上が経ってしまった。この集会にディスカッサントとして参加するのための準備として読んだテキストと当日の議論を振り返りながら、そこで得られた知見を反芻する時間がなかなか見つからない。今日(29日…

「同時代思想」試験採点終了!

イナルコの「同時代思想」の採点は、結局昨晩中に終えることができず、今日(28日火曜日)の昼までかかってしまった。 最終結果は以下の通り。23人の履修登録学生中受験者は16人。うち2名は白紙答案だったから、もちろん零点。この2つの答案を除いた14の答案…

採点がまだ終わりません

今朝(二七日月曜日)、プールでひと泳ぎした後、午前九時から夕方まで、昨日の記事で試験問題を公開した「同時代思想」の答案の採点をずっと続けているのだが、まだ終わらない。あと六つ残っている。今晩中には終わらせないと、水曜日の講義の準備に差し支…

「同時代思想」試験問題

今日も昨日の続きで21日の研究集会のことを記事にするつもりでいたのだが、24日金曜日にあったイナルコの「同時代思想」の試験答案の採点が思うように進んでおらず、この記事を書いた後すぐにまた採点作業に戻らなくてはならないので、その試験問題をここに…

無限相互媒介の記号論理学 ― パース哲学を介して見出される鶴見俊輔と田辺元の交叉点

昨日の記事の続き。合田氏の鶴見俊輔についての発表について私が問題にした第二の点は、発表の中では示唆的に示されただけの鶴見と田辺元との接点である。ちょっと考えただけでは、この両者の間に接点を見つけることは難しい。鶴見自身「戦中思想再考」(初…

脱構築の先駆けとしてのプラグマティズム ― パースの記号論からデリダの『グラマトロジー』へ

21日のパリ第七大学研究集会での合田正人氏の発表は、鶴見俊輔におけるプラグマティズムを中心的なテーマとしていたが、発表の後半で竹内好が鶴見に最も深い影響を与えた思想家の一人として取り上げられており、その部分はプラグマティズムという問題圏を超…

文化生成のダイナミクス―断裂と継承、もしくはミメ―シス問題 ― 21日のパリ第7大学研究集会を振り返って

21日火曜日はパリ第7大学での研究集会に参加した。集会のテーマは、今日の記事のタイトルに掲げた通り。明治大学とパリ7との共同企画。発表者三人はすべて明治大学の教授たち。 午前中は、合田正人氏による鶴見俊輔ついての発表。タイトルは、「日本のプラ…

私撰万葉秀歌(8) あはにな降りそ ― 遥望御墓悲傷流涕御作歌

降る雪のあはにな降りそ吉隠の猪養の岡の寒くあらまくに(巻二・二〇三) 歌の詠まれた場面を示す題詞をそのまま書き下し文で引く。「但馬皇女の薨ぜし後に、穂積皇子、冬の日に雪の降るに御墓を遥望し悲傷流涕して作らす歌一首」。高市皇子・穂積皇子・但馬…

私撰万葉秀歌(7) 見すべき君が在りと言はなくに ― 哀切極まりない慟哭の挽歌

磯の上に生ふる馬酔木を手折らめど見すべき君が在りと言はなくに(巻二・一六六) 罪死した弟大津皇子の遺体が葛城の二上山に移葬された時に、同母姉大伯皇女が悲しんで作られた歌。長年の愛読書の一つ塚本邦雄撰『清唱千首』(冨山房百科文庫、1983年)には…

私撰万葉秀歌(6) うらさぶる心さまねし ― 天地有情の世界に佇みながら

うらさぶる心さまねしひさかたの天のしぐれの流れあふ見れば (巻一・八二) 「うら寂しい思いが胸いっぱいにひろがる。ひさかたの天のしぐれが宙にういてはらはらと流れ合っているのを見ると」(伊藤博訳注『新版万葉集 一』角川文庫)。「心寂しい想いで胸…

私撰万葉秀歌(5) 八十娘子らが汲み乱ふ ― 可憐なる映像詩

もののふの八十娘子らが汲み乱ふ寺井の上の堅香子の花 (巻十九・四一四三) 「たくさんの娘子たちが、さざめき入り乱れて水を汲む寺井、その寺井のほとりに群がり咲く堅香子の花よ」(伊藤博訳注『新版万葉集 四』角川文庫)。「八十娘子」は「ヤソオトメ」…

私撰万葉秀歌(4) 玉裳の裾に潮満つらむか ― 詩的に純化された清冽な官能性

嗚呼見の浦に船乗りすらむ娘子らが玉裳の裾に潮満つらむか (巻一・四〇) 詞書に「伊勢の国に幸す時に、京に留まれる柿本朝臣人麻呂が作る歌」とあるから、持統天皇の伊勢行幸に供奉しなかった人麻呂が、明日香の都で詠んだ歌だとわかる。つまり、当地の光…

私撰万葉秀歌(3) 君し踏みてば玉と拾はむ ― 恋する世界における物象変容

信濃なる千曲の川のさざれ石も君し踏みてば玉と拾はむ (巻十四・三四〇〇) 「さざれ石」は、原文では「左射礼思」となっているから、「サザレシ」と訓む。東歌らしい素直な詠み振りだから、歌意の理解に困難はない。「信濃の千曲の川の細れ石も、いとしい…

おのが姿に身をかくしけり ― 純白無垢の雪景色

冬草も 見えぬ雪野の 白鷺は おのが姿に 身をかくしけり 道元禅師和歌集とされる『傘松道詠』中の「礼拝」と題された一首。同歌集の編纂・流布は江戸時代のことで、収録歌中道元真作かどうか疑われる歌も少なくないようである。そのような専門的な考究はとも…

倫理の形象化としての詩的表現 ― 漱石名句集(2)

菫ほどな小さき人に生まれたし 作句の背景を抜きにして、表現そのものから解釈してみる。もちろん一廉の評釈などという大それたことを試みようというのではなく、以下に記すのは、この句が私に引き起こした反応の走り書きにすぎない。 「生まれたし」と願望…

告げぬ恋、秘められた恋人の突然の訃報 に触れて― 漱石名句集(1)

有る程の菊抛げ入れよ棺の中 明治四十三年、修善寺の大患後、東京に帰り、胃腸病院入院中の作。日記には、十一月十三日のところに「新聞で楠緒子さんの死を知る。九日大磯で死んで、十九日東京で葬式の由。驚く。」とあり、二日後の十五日の記事には、「床の…

西田幾多郎と夏目漱石-短歌と俳句-膠着語と孤立語-連続と断絶

昨日の記事で引用した随筆「短歌について」の中で、西田は、短詩形の表現の固有性に触れ、次のように述べている。 短詩の形式によって人生を表現するということは、単に人生を短詩の形式によって表現するということではなく、人生には唯、短詩の形式によって…

表現論から場所論へ ― 西田哲学理解のための一方途

西田の詠んだ短歌は、文学作品として評価されうるほどの技巧と完成度を持ったものではないが、それだけに折々の感情が直によく表現されている歌が少なくない。本居宣長が『あしわけをぶね』で展開した和歌論の基本的テーゼ「ただ心に思ふことをいふより外な…

わが心深き底あり ― 西田哲学における根源的受容性

わが心深き底あり喜も憂の波もとゞかじと思ふ 1923(大正12)年、西田53歳のときの歌である(『西田幾多郎歌集』岩波文庫、2009年、25頁。この文庫版には、「喜」には「よろこび」、「憂」には「うれひ」とルビが振られている)。西田はどのような心境でこの…

私撰万葉秀歌(2) 世間空虚 ― いよよますます悲しかりけり

世の中は空しきものと知る時しいよよますます悲しかりけり 萬葉集巻五冒頭の雑歌(七九三)であるこの大伴旅人の歌は、古来よく知られた万葉歌の一つである。 原文は一字一音の万葉仮名で表記されているので、訓みにまぎれ無し。「いよよ」は「いよいよ」の…

世間之愚人 ― 浦島伝説より

佐竹昭広の『萬葉集再読』(平凡社、2003年)に、「「無常」について」と題された論文があり、そのはじめの方に、萬葉集巻九・一七四〇、「浦島』伝説を回顧した高橋虫麻呂の長歌が引かれている。その長歌の中に「世間之愚人」という表現が出てくる。「ヨノ…

生へのはじめの一歩 ― 幻想の「山里」か現実の「憂き世」か

今日(8日)、午前7時にアンリ四世校裏のプール Jean Taris に行く。40分ほど泳いで切り上げる。その後は午後4時過ぎまで講義の準備に集中。 講義そのものはほぼ予定通りに進めることができた。大森荘蔵の最後の文章「自分に出会う ― 意識こそ人と世界を隔て…

世間難住 ― この憂き世に彷徨いつつ

この記事のタイトルは、萬葉集巻五・八〇四の山上憶良の「哀世間難住歌」から取った。白川静は『後期万葉論』(1995年)で、この題を「せけんなんじゅうをかなしぶるうた」と訓んでいるが、伊藤博は「せけんのとどみかたきことをかなしぶるうた」(『新版万…

無事帰国 ― 冬の暗いパリに戻る

今朝6時過ぎにシャルル・ド・ゴール空港に到着。機内は満席だったが、日本時間で午前零時半発なので、ほとんどの乗客は最初の簡単な飲み物と軽食のサービスが終わると寝てしまう。私もそうだった。今回の滞在中、心身ともに思っていた以上に疲れていたという…

冬の日本滞在最終日に思う

今夜の羽田発の便でパリに戻る。正確には、7日午前一時半出発で、同日の午前6時20分シャルル・ド・ゴール空港着予定。予定通りならば、8時前後には自宅に着けるだろう。東京の実家でちょっとだけ正月気分を味わえたが、滞在中は常に大きな気がかりがあり、心…

古いテキストを新しく読む ― 井筒俊彦最後の著作について

井筒俊彦最後の著作は、その逝去の二月後1993年3月に刊行された。メイン・タイトルは『意識の形而上学』であるが、それは「東洋哲学覚書」と冠され、「『大乗起信論』の哲学」を副題とする。このタイトルに見られる三層構造が、井筒俊彦の全体的企図とその具…

父の墓参り ― 託された封筒の中身

今日、妹の運転で母と一緒に高尾にある父の墓参りに行ってきた。母と妹にとっては昨年春以来の墓参だが、私には前回の墓参がいつだったかすぐには思い出せないほど久しぶりのことだった。フランスで暮らすようになった十八年前からは、短期の一時帰国の際に…

思考の論理、あるいはその生理と律動 ― テキスト読解の鍵

音楽を演奏するとき、リズムやテンポが不適切では、そもそも演奏として成り立たないのが普通であろう。それでも無理に演奏すれば、曲想を壊してしまう。もちろん、敢えて作曲者の指定と違うリズムやテンポを選ぶことによって、その曲に新たな息吹を吹き込む…

茶は花にして、花は言葉、そして言葉は命 ― 岡倉天心への回路を索めて

岡倉天心の名は、父方の祖父が美術評論家として天心について一書を著した思想家として、年少の頃から親族の会話の中で聞いて以来、心の何処かに響き続けていた。しかし、真剣にその著書を読む機会はこれまでなかった。『茶の本』の仏訳を大学の講義で取り上…