内的自己対話―川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。

2017-06-01から1ヶ月間の記事一覧

来年度前期修士課程演習:日仏共同ゼミ準備のための合同演習と「日本思想史における世界観と自然観」

修士課程では、来年度前期、一・二年合同演習と修士二年の演習「日本思想史における世界観と自然観」を担当する。 合同演習は、毎年二月にストラスブール大学と CEEJA で行われる法政大学哲学科の学生たちとの共同ゼミの準備のための演習である。一昨年から…

来年度前期に担当する学部講義:古代史と上代文学史 ― その内容・方法・目標

今日は、九月からの来年度前期に担当する学部講義の内容について書き留めておく。そうするのは、昨日の研究計画の場合と同様、自分の頭の中を整理しておくためというのが第一目的で、本来人様にお見せするような内容ではないのだが、ブログの記事として公に…

今年後半から来年三月にかけての研究並びに原稿執筆計画と来年度前期の講義と演習の予定

一年の前半が終わろうとしている今、今年後半から来年三月までの研究並びに原稿執筆計画と来年度前期の講義と演習の予定を整理しておこう。 九月からの学科長としての一切の職責は、そこにはもちろん含まれないし、そもそも考えたくもないのだが、とにかく準…

模範としての父親像の欠損 ― 小林敏明『夏目漱石と西田幾多郎 ―共鳴する明治の精神』を読みながら

著者の小林敏明さんから岩波新書の今月の新刊『夏目漱石と西田幾多郎』を岩波書店を通じご恵送いただいた。 漱石と西田の比較は私自身かねてより興味を持っているテーマであり、実際、拙ブログの2014年1月14日の記事「西田幾多郎と夏目漱石-短歌と俳句-膠…

「日本人とは誰のことか」― バカロレア筆記試験答案採点を終えて

今朝、ストラスブール大学区の事務局にバカロレアの日本語筆記試験の答案を取りに行き、帰宅してすぐに採点開始、昼過ぎには採点終了、点数をネット上で入力して作業完了。答案はたった五枚だから、ほとんど苦にならない作業だった。 答案の枚数が桁違いに多…

イナルコでの研究発表を終えて ― 帰り道での思いもよらぬ「ご褒美」、そして宵闇を自転車で疾駆する

昨日は、パリのイナルコで、時枝誠記の言語過程説における主体概念と戦中の言語政策論文との関係についての研究発表を行った。内容は三月のストラスブール大学でのシンポジウムのときとほぼ同じだったが、今回はそれをフランス語で発表した。三月のシンポジ…

言葉の力の高みへと私たちを高めるための戦い

La joie spacieuse の紹介の締め括りとして、序論の最後の段落全文を読んでいこう。 De même que les choses sont plus durables que ceux qui en usent, comme le méditait Hegel, de même les mots sont plus anciens et plus puissants que les hommes qu…

歴史の中の一つの言葉の旅 ― 一茎の草に乗って大海を渡る昆虫のごとくに

ベルクソンにおける哲学の方法そのものとしての dilatation について『創造的進化』に主に依拠しながら詳述した後、序論の締め括りとして、クレティアンは、読者へ一言、La joie spacieuse で自分が採った探究方法について一種の弁明を行う。そこが私にはと…

哲学の方法としての「膨張」(その九)― 一つの言葉の徹底的な拡張使用

知性によって明確な形態として現れる諸事物の周りのぼんやりとした辺縁域に見られる不分明な諸要素の中にこそ、私たちの思考の知的形態を拡張するための指標を探しに行かなくてはならない。その中にこそ、私たちが私たち自身を超えていくために必要な飛躍の…

哲学の方法としての「膨張」(その八)― 己の内に秘されていたものを己の外に再び見出す

クレティアンによれば、ベルクソンの著作中、〈拡張-回心 dilatation-conversion〉というテーマをもっとも発展させているのは『創造的進化』である(Chrétien, op. cit., p. 28)。 生命の大海原にあって、知性は「一種の局所的な凝固」(« une espèce de s…

哲学の方法としての「膨張」(その七)― 生命の源泉への回帰へと向かわせる回心

クレティアンは、ベルクソンにとっての dilatation はプロティノス的意味での真の回心である、と言う。つまり、絶対的なものへの一転回である。ベルクソンにとっての絶対的なものとは生命にほかならない。絶対的なものへの一転回とは、上流への遡源、私たち…

哲学の方法としての「膨張」(その六)― 科学がもたらす快楽と哲学がもたらす歓喜

ベルクソンは、芸術に対してばかりでなく、科学に対しても、哲学の優位性を主張する。それは、私たちが生きる知覚世界により大きな時間・空間的広がりと奥行きを哲学が与えてくれる点においてである。 この点についても異論は多々ありうるだろうが、まずはベ…

哲学の方法としての「膨張」(その五)― 私たち自身を私たちから隠してしまう現在という遮蔽幕

私たち自身の生命の拡張によって、私たちは生命そのものの拡張を経験する。私たち自身の存在のこの動態性は、私たちに存在そのもの動態性を再発見させてくれる。しかし、これらのことは哲学の専売特許ではない。芸術もまた与えてくれる。 L’art nous fait sa…

哲学の方法としての「膨張」(その四)― 直観を拡張し、繋ぎ合わせる哲学的作業

クレティアンが引用しているベルクソンのテキストを辿りながら、ベルクソンにおける直観と哲学との関係、その関係における拡張(あるいは膨張)作用についての理解をもう少し深めたいと思う。 知覚世界を穿ち、それを拡張させる直観は、しかし、それがそのま…

哲学の方法としての「膨張」(その三)― 知覚を穿ち、知覚を拡張する直観

生への注意が要請する差し迫った行動の必要から解放されればされるほど、私たちの人格はより深層へと質的に拡張される。しかし、その質的拡張に曖昧さは伴わないのであろうか。 クレティアンの論述を辿ってみよう。 拡張(膨張)は意志から始まる。それは行…

哲学の方法としての「膨張」(その二)― 人格の深層への質的拡張

ベルクソンにおいて哲学的直観の可能性の条件である膨張とはどのような変化を指しているのか。何が膨張するのか。膨張するとはどういうことなのか。 『物質と記憶』第七版(1911)以降の冒頭に置かれるようになった緒言の中で、「生への注意」(« l’attentio…

哲学の方法としての「膨張」(その一)

六月十日の記事で取り上げたジャン=ルイ・クレティアンの La joie spacieuse は副題が Essai sur la dilatation となっている。 この « dilatation » という語は「膨らむこと、広がること;(心などが)晴れ晴れすること」(『小学館ロベール仏和大辞典』)…

哲学史の二つのモメント:噴出と堆積 ― ベルクソンのコレージュ・ド・フランス講義『自由の問題の変遷』について(承前)

昨日の記事で取り上げたベルクソンのコレージュ・ド・フランスでの1904-1905年度講義『自由の問題の変遷』第一回目の講義の終わり(op. cit., p. 31-32)に、ベルクソン独自の哲学史観が印象深い比喩によって簡潔に提示されている。 ベルクソンによれば、西…

概念的表現と不可分の声 ― ベルクソンのコレージュ・ド・フランス講義『自由の問題の変遷』について

今年の一月にPUFからベルクソンのコレージュ・ド・フランス講義の第二冊目 L’évolution du problème de la liberté が出版された。第一冊目として昨年出版された Histoire de l’idée de temps. Cours au Collège de France 1902-1903 については、今年の二月…

具象的であるとはどういうことか ― ピエール・フランカステル『芸術と技術』に事寄せて

この夏の東京での集中講義のテーマについては二月八日の記事で紹介した。今日は、その講義の準備の一環として、ピエール・フランカステル(Pierre Francastel, 1900-1970)の Art et technique aux XIXe et XXe siècles, Gallimard, coll. « Tel », 1988 (la…

西洋精神史における「喜びの系譜学」― ジャン=ルイ・クレティアン『伸び広がる喜び』の企図

喜びが沸き起こるとき、すべてが伸び広がる。呼吸はより大きく深くなり、それまで縮こまって自分が居る場所を占めていただけの私たちの体は、喜びとともに身を起こし、生き生きと動き出す。飛び上がり、走り、踊りたくなる。なぜなら、喜びとともに、伸び広…

近代人の孤独な理性の尊厳と悲劇 ― パノフスキー『視覚芸術の意味』第一論文冒頭に触れて

エルヴィン・パノフスキー(Erwin Panofsky)の Meaning in the Visual Arts (1957)には、『視覚芸術の意味』(岩崎美術社、美術名著選書 18、1971年 )という邦訳がある。未見だが、おそらく原著の全訳であろう。仏語版 L’œuvre d’art et ses signification…

コレッジオ「林檎を差し出すイヴ」をめぐる散文詩のように美しい図像解釈学的随想 ― Starobinski, 『Largesse』緒言

相変わらずスタロバンスキーの著作の森の中を日課のように「散策」しています。今日は、Largesse, Gallimard, coll. « Art et artistes », nouvelle édition revue et corrigée par l’auteur, 2007 の Liminaire (緒言)の最初の段落を繰り返し読んでいまし…

身体の詩学、あるいは世界変容としてのロゴファニー(logophanie)

来年の三月、「身体とメッセージ / 翻訳と翻案の構造」と題された国際演劇・視覚芸術学会シンポジウムがストラスブール大学で三日間に渡って開催される。主催者から研究発表しないかとの誘いを先月末に受け、折角の機会だから発表したいと思っている。今月末…

無意識の世界の危険な旅からの生還

今日の記事は、とりとめのない呟きです。 エランベルジェの『無意識の発見』を読んでいて、無意識の世界の旅は、未知の大海原の危険に満ちた航海に似ている、と思った。進路を見失う危険もあるし、航海中に悪天候に見舞われることもあるし、難破の恐れもつね…

自伝という虚構

自伝が必ずしも事実を伝えるとは限らない。著者本人が意図して事実を歪曲しようしていなくても、記憶違いの場合を除いても、できるだけ正直にありのままを記述しよとしたとしても、そこに書かれていることをそのまま鵜呑みにするわけにはいかない。 どんなに…

「散る桜 残る桜も 散る桜」― 終わってしまいました、『ツバキ文具店』

ほんとうに、いいドラマでした。 先週金曜日の最終回でバーバラ夫人が自宅での花見の宴で皆の前でつぶやく良寛和尚の辞世の句と言われる「散る桜 残る桜も 散る桜」がとても心に染みました。戦中は特攻隊の心情を代弁する表現として利用されたということはあ…

「創造の病い」からの快癒の後に現れる持続的な人格変容と新しい世界の発見の確信

エランベルジェは、『無意識の発見』の中のフロイトの生涯と精神分析の誕生を扱った第七章で、フロイトが一八九四年から一九〇〇年にかけて疾患した奇妙な病の経過とその間の経験について詳述した後、そこから「創造の病い」」の定義と諸特徴を引き出す。そ…

拙ブログ五年目に入る

二〇一三年六月二日に始めたこのブログは今日から五年目に入ります。この四年間毎日投稿し、何回かは日に二つの記事を投稿したこともありましたから、記事総数は千五百本あまりになりました。 随分いろいろ書いたようにも思いますが、まだ四年間ですし、いつ…

健康よりも健やかな病いがある ― ノヴァーリスに見られる「創造の病い」の萌芽

エランベルジェの論文 « La notion de maladie créatrice »(Dialogue, Canadian Philosophical Review, III, 1964, p. 25-41)は、ケンブリッジ大学出版局の Cambridge core というサイトから23€で電子版が入手可能なようなので、同サイトに登録しようとし…