内的自己対話―川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。

2024-09-01から1ヶ月間の記事一覧

夢に対する「思いやり」

西郷信綱は、その名著『古代人の夢』(平凡社ライブラリー、1993年)のなかで、南方熊楠の「自分を観音と信じた人」という論考から次の一文を引用している。「東西人共多分は、現代の世相人情を標準として、昔の譚を批判するから、少しも思ひやりなく、一概…

夢の通い路、あるのかも知れない ― 『瘋癲老人酔夢譚補遺』(刊行予定なし)より

先週、ちょっと、いや、かなり、不思議な経験をした。 半年以上お互いに無沙汰をしていたある人からメールが届き、会って話がしたいという。驚いた。なぜなら、その人のことをその前週に私は夢に見ていた。その夢の前に確かにその人のことをときどき思い出し…

「痛み douleur」と「苦しみ souffrance」とを質的に区別する ―『ケアとは何か』のよりよき理解のために

先週の水曜日の演習で導入した第三の「補助線」は、「痛み douleur」と「苦しみ souffrance」との質的な区別である。この問題は私にとって三つの「補助線」のなかでもっとも重要な考察主題である。 実際、この問題については、2019年5月12日から6月10日にか…

「依存 dépendance」を内包した「自律 autonomie」―『ケアとは何か』のよりよき理解のために

一昨日の演習で提示した第二の「補助線」は、自立と自律の区別及び自律と依存との関係という論点である。 『ケアとは何か』第二章「〈小さな願い〉と落ち着ける場所――「その人らしさ」をつくるケア」には、「自律」と「自立」が違った節で別々に取り上げられ…

患者のサインは、「信号」ではなく、「記号」である ― 『ケアとは何か』のよりよい理解のために

『ケアとは何か』を学生たちと読み進めていく中で、本書の理解を深めかつ関連する諸問題に広く目配りができるように、一方では、村上靖彦氏の他の著作や氏が本書のなかで言及・引用している他者の著書なども紹介し、他方では、重要概念の理解を助ける「補助…

「居場所」とは「「何もせずに」居ることができる場所であり、一人で過ごしていたとしても孤独ではない場所」―村上靖彦『交わらないリズム 出会いとすれ違いの現象学』(青土社)より

「居場所」という言葉自体は明治期から使われているが、『新明解国語辞典』(第八版)に用例として挙げられている「自分の家なのに居場所が無い」といった使い方での「身を落ち着けて居られる場所」という意味での用法は比較的最近広まったようだ。 村上靖彦…

今年度日仏オンライン合同授業・第1回目

今朝、6時20分から7時50分まで、法政大学哲学科の学部生15名とストラスブール大学日本学科修士課程一年生13名、法政側のK先生と私も含めて30名で今年度最初のオンライン合同授業が行われた。 法政側は今日が今年度の「国際哲学特講」の第1回目だったが、こち…

すでに亡くなっている方の誕生日を知らせるメッセージが届く怪奇(?)

今朝、フェイスブックを開いて、ちょっとぎょっとすることがありました。既にお亡くなりになっている方の誕生日を知らせるメッセージが「お知らせ」欄に届いていたのです。 その方には生前何度かお目にかかったこともあり、フェイスブック上の「友達」にも十…

あなたのご職業は? ― 他人の受け売り業です

拙ブログを今日まで寛容にもお読みくださっている方々はよく御存知のとおり、記事の大半は拙者が読んでほんとうにいいなあと思った文章の紹介に過ぎません。それらの記事にはなんらのオリジナリティもありません。 それにもかかわらず、それらを読んでくださ…

名前で呼ばず、番号で示す非人称化の暴力性

昨日紹介した『医療とケアの現象学』の最終章「ICUナースによるICU での患者経験から 交錯する患者の視点と看護師の視点」で村上靖彦氏が詳細な考察を行っているのは、急性・重症看護専門看護師としてICUでの勤務経験が長い宇都宮さんが突然の病で(知り合い…

医療とケアの当事者の経験に迫る質的研究アプローチ ― 榊原哲也・西村ユミ編『医療とケアの現象学』

修士1年の演習のテーマである「ケアとは何か」に関連して、9月に入ってからケアに関する研究書を並行して読み進めている。そのなかの1冊が榊原哲也・西村ユミ編『医療とケアの現象学 当事者の経験に迫る質的研究アプローチ Phenomenology of Medical Care…

「憂いがあって人が救えようか」―『荘子』人間世篇より

文章を書くのにPCに頼るようになってもうずいぶん時が経つ。少なく見積もっても三十年は優に超えている。このブログの記事からしてもっぱらPCに打ち込むばかり。日常生活の中で手書きすることは稀になり、教室で板書することもほとんどなくなった。 結果、漢…

「ケアとは何か」を自分自身の問題として考える

今日は修士一年の「思想史」の演習で村上靖彦氏の『ケアとは何か』を読む第二回目。学生たちに、まえがき・目次・あとがき・第一章の読めたところまでについての個人的な感想をフランス語で発表してもらった。 感想の内容はさまざまであったが、「ケアとは何…

「センセイ、授業を定刻前に始めないでください。」

月曜日に担当している二つの授業、8時半から10時までの「日本思想史」と14時から15時までの「日本文明入門」との間には4時間も空きがある。日本の大学のように個人研究室があれば、誰にも邪魔されずに授業の準備や雑務の処理もできるだろう。ところが、フラ…

「ノイズ」によってこそ表現されている思考の綾と感情の揺らぎ

インタビューでも対談でもモノローグでも、録音をなんら編集せずにそのまま聴くと、多くの場合、文法的・構文的・統辞法的な観点からは必要のない要素、情報伝達の観点からも不必要と思われる要素が、おそらく話者本人が思っている以上に多く含まれているこ…

二つの相補的な居場所を持つということ― 村上靖彦『ヤングケアラーとは誰か 家族を“気づかう”子どもたちの孤立』より

村上靖彦氏の『ヤングケアラーとは誰か 家族を“気づかう”子どもたちの孤立』(朝日新聞出版、2022年)は、2014年から氏が始めた子育て支援の研究のなかに位置づけられる一冊である。 『母親の孤独から回復する 虐待のグループワーク実践に学ぶ』(講談社選書…

〈居場所〉― そこへと帰りたいと渇望する「なつかしき」場所 ― 村上靖彦『子どもたちがつくる町 ― 大阪・西成の子育て支援』に触れて

昨日の記事で取り上げた西村ユミ氏の『看護実践の語り 言葉にならない営みを言葉にする』と同時に購入したもう一冊の電子書籍は村上靖彦氏の『子どもたちがつくる町―大阪・西成の子育て支援』(世界思想社、2021年)だった。『ケアとは何か』に何度も引用 ・…

「引っかかり」―「未だ生み出され続け、他者とかかわることをとおして更新されつつある“生きた経験”」― 西村ユミ『看護実践の語り 言葉にならない営みを言葉にする』(新曜社、2016年)より

『ケアとは何か』のまえがきにも本文にも何度か引用されていて気になっていた著者の一人が西村ユミ氏である。氏の『語りかける身体 看護ケアの現象学』(講談社学術文庫、2018年)を読んで受けた衝撃については2020年7月29日から九回にわたる「読中ノート」…

「ケアの彼方」― 村上靖彦『摘便とお花見―看護の語りの現象学』より

村上靖彦氏の『ケアとは何か』を修士の演習の課題図書に選んでほんとうによかったと思っている一方、ちょっと困っているのは、本書の中で引用されている村上氏の他の本も読みたくなるし、多数引用・言及されている他の著者の本も読みたくなってしまうことで…

ケアは人間の本質そのものである

大学教師も学生たちに対してケアラーの役割を果たすことが求められるケースが増えてきている。ケアという言葉が流通するようになる前から、それぞれの学生たちが直面している或いは抱え込んでいる問題について教師が相談に乗り、解決に協力することはあった…

今年度日仏合同ゼミ課題図書 ― 村上靖彦『ケアとは何か 看護・福祉で大事なこと』(中公新書、2021年)

日中、明日から始まるマスター一年生前期必修科目(今年から二年生も選択科目として履修可能となった)の「Histoire des idées 思想史」の授業の準備に没頭していた。 このブログですでに何度も言及したことだが、この演習は、私が前期担当するもう一つの一…

今日から新学年度の授業が始まりました

今日から新しい年度の授業が始まりました。今年から新カリキュラムが施行されます。このカリキュラムが施行される五年間、細部の修正は毎年可能ですが、大幅な内容変更は原則できません。 前カリキュラムとの大きな変更点は、ほぼすべての授業が一コマ2時間…

「紛るる方なく、唯独り在る」― パスカルにおける「人間の不幸」に対する応答としての兼好の「つれづれ」

昨日の記事の最後に見た段階にまで深められた「すさび」は、もはや荒びもなければ、遊びでもない。 唐木は、「すさび」に続く第二節「つれづれ」で『徒然草』の第七十五段の全文(9月2日の記事に全文を掲載した)を引いたうえでこう述べる。 荒びたる無聊を…

「すさぶ」小論補遺 「時間というもの、生起というもの、人心というものの根柢としての「すさび」」― 唐木順三『中世の文学』の兼好論から(二)

「ひとは、時代の荒び、心の荒びのなかにあって、「なぐさめごと、あそびごと」を求める。いや求めざるをえない。」と切り出してから唐木はこう続ける。 「パスカルのいう divertissement(気晴し、鬱さ晴し、慰み、慰戯、いたずら、余興)は、「すさび」に…

「すさぶ」小論補遺 「そういう時代をそういう時代として受け取る」― 唐木順三『中世の文学』の兼好論から(一)

唐木順三の『中世の文学』には「兼好」と題された章があり、「一 すさび」「二 つれづれ」という二節に分かれている。 「すさび」は、大槻文彦の『大言海』から『源氏物語』での三例を挙げるところから書き起こされている。それはそれとして興味深くもあるが…

「身も心も消尽させ、意気消沈させる至福」― パスカルの『パンセ』による間奏曲

唐木順三の『中世の文学』のなかの「すさび」論に立ち戻る前に、もう一「曲」、パスカルの『パンセ』の断章を聴いてみましょう。それというも、唐木の「すさび」論のなかにパスカルの『パンセ』における divertissement についての言及があるからです。『パ…

「すさぶ」小論補遺・オンリー・サイテーション間奏曲 ― パスカル『パンセ』より

« Si l’homme était heureux, il le serait d’autant plus qu’il serait moins diverti, comme les saints et Dieu. » – « Oui. Mais n’est-ce pas être heureux que de pouvoir être réjoui par le divertissement ? » – « Non. Car il vient d’ailleurs et…

「すさぶ」小論補遺 「無を媒介にして有をみる」― 唐木順三『中世の文学』の「すさび」論から(二)

『中世の文学』からの摘録を続ける。摘録といっても、「中世文学の展開」には唐木の考えが凝縮されたかたちで提示されているので、それをほとんどそのまま引き写すに過ぎない。それでもその引き写す「手作業」を通じて考えさせられてもいるから私自身にとっ…

「すさぶ」小論補遺「現実の根柢としてのすさび」 ― 唐木順三『中世の文学』の「すさび」論から(一)

昨日の記事は、「すさむ」から「すさぶ」へと遡り、そこから転じて中世の「すさび」の一例を『徒然草』から採り、いわゆる「すさび心」や気ままさほど兼好から遠いものはないとする島内裕子氏の兼好理解が示された一節で締めくくった。 しかし、兼好はただす…

現代の荒む心から『万葉集』の「咲きすさぶ露草」にまで立ち戻り、そこからまた『徒然草』における「すさび」へと遊行する言葉の旅

これも一つの儚い慰みごとに過ぎないとわかってはいるのですが、普段何気なく使っている言葉を数冊の小型国語辞典で調べ、その言葉あるいはその旧形が古語にまで遡る場合は、やはりそれを複数の古語辞典で調べ、その語の原義から現用までの変遷を辿り直すこ…