内的自己対話―川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。

2022-09-01から1ヶ月間の記事一覧

長月の終わり

今日で9月も終わり。8月31日に日本から帰ってきてちょうど一ヶ月経ったことになる。どうしてかよくわからないが、長かったなあと感じる。新しい学年が始まってそれなりに忙しくはあったが、学科長だった四年間に比べれば大したこともなく、日常生活でも特…

偏りのない意見など意見でさえない ― アラン『芸術の体系』について

若い頃はかなり熱心にアランの著作を読んだものだが、フランスに来てからはほとんど読むことがなくなった。別に嫌いになったわけではないが、あんまり読みたいとも思わなくなった。理由は自分でもよくわからない。 日仏合同ゼミに参加している日本人学生たち…

ロンドンの霧の美はいつ誰によって発見されたか ― オスカー・ワイルド『インテンションズ』より

学生たちが中井正一の『美学入門』を読んで興味をもった箇所の一つは、中井がオスカー・ワイルドに言及しつつ、風景の美は画家や詩人の作品によって発見され創造されたものであり、それ以前には存在しなかったと言っている以下の箇所である。 彼の評論集『イ…

今年度日仏合同ゼミ第一回目遠隔合同授業

今朝6時10分から7時50分まで今年度第一回目の日仏遠隔合同授業が行われた。開始二時間ほど前、こちらの大学のメールボックスがアクセス不能になり(最近頻繁にあり、閉口している)、このままだとメールで届いていたZOOMのリンクを開けないと慌てたが、日本…

日本近代の特異点 ― フクシマ以後の「無常観」

村上春樹と高畑勲が期せずして同じように日本人の「無常観」について語っている文章を2019年2月27日と28日の記事で取り上げた。この二つの文章は授業でもよく取り上げる。しかし、それは二人の所説に私が賛成しているからではない。問題はむしろ、このような…

外なる源泉への回帰、未来への希望

毎年3年生の「近代日本の歴史と社会」の授業で Rémi Brague の Au moyen du Moyen Âge の何箇所かを紹介する。その一つが « Les leçons du Moyen Âge » と題された文章の結論部である(この結論部は2013年8月9日の記事に私訳を載せてある)。 ブラッグが…

週末の自由な読書

今年度前期の授業が始まってから二週間が過ぎた。学部と修士で担当している四つ授業それぞれを二回ずつ行った。授業の準備にも少し余裕ができた。先の見通しもだいたいはっきりした。日本の大学のように詳細なシラバスを事前に提出する必要がないから、それ…

一つのテキストに対する四つのアプローチ ― 文章を「血肉化」するということ

授業のテーマがなんであれ、教室で読む日本語のテキストに対して取りうる四つのアプローチを学生たちには授業中に説明する。 第一は、昨日の記事で話題にしたように、音読である。 これはさらに四つのタイプあるいは段階に分かれる。 まず素読。内容の理解を…

音読を自宅で実行させるには

テキストを声に出して読む練習を学生たちに各自実行してもらいたいのだが、これがなかなかうまくいかない。二年生は出席者が五十名を超えているので、一人一文ずつでも時間がかかりすぎて授業では練習が行えない。今日の授業で十人ほどに一文ずつ読ませてみ…

学生諸君、おみそれいたしました(平身低頭の巻)

今日は修士一年の演習の第二回目だった。先週出した課題は、中井正一の『美学入門』を読んでの第一印象をフランス語と日本語で自由に発表する準備をして来ることだった。それは彼らが本書に対してまずどんな反応を示すのか知るためであったが、感想の中味に…

日本の高校にはなぜ哲学の授業がないのですか

先週金曜日の「近代日本の歴史と社会」の授業の直後、一人の男子学生が質問に来た。「授業には直接関係ない質問なのですが、日本の高校にはなぜ哲学の授業がないのですか。」 いい質問である。簡単には答えられないけれど、と前置きした上で、「日本の高校ま…

私たちは歴史について何を知っているのか

昨日の記事で一言言及した Lynn Hunt の History. Why It Matters, Polity, 2018には日本語訳があるが、アマゾンのレヴューによると訳が相当にひどい代物らしい。ここまで酷評されているのも珍しいことで、それらすべてが無根拠な誹謗中傷ばかりとも思えない…

E. H. カー『歴史とは何か』が今またよく読まれているのはなぜか

E. H. カーの古典的名著 What is History ?(1961年)は、1962年刊行の岩波新書、清水幾太郎訳『歴史とは何か』が六十年に亘って読みつがれてきたが、今年五月に近藤和彦氏による新訳『歴史とは何か』が岩波書店から単行本として刊行され、すこぶる売れ行き…

「すべての歴史は現代史である」

昨日の記事の最後の段落で言及した『大学でまなぶ日本の歴史』の「オリエンテーション」には「歴史の学び方」に続いて「歴史と現在」と題された節がある。この節は来週の授業で読む予定だ。 この節には、イタリアの哲学者・歴史家クローチェとイギリスの歴史…

歴史哲学講義からはじまる「近代日本の歴史と社会」

今日、学部三年の「近代日本の歴史と社会」の今年度最初の授業があった。今年で五回目の担当になる。毎年、使用テキストの一部を入れ替え、説明内容を修正あるいは変更しているが、ここ三年は主な部分に変更はない。 しかし、学生たちからの反応は年によって…

カミとホトケから始める宗教史

今日は学部二年の「古代日本の歴史と社会」の初回だった。この講義を担当するのは今年が初めてだ。とはいえ、現在のカリキュラムになる前の四年間「日本古代史」を担当していたし、前任校でも日本通史を八年間担当していたから、講義の基礎資料はすでに十分…

修士一年の演習始まる

今日は修士一年の演習の初日だった。原則として、修士の演習は一コマ二時間六回の計十二時間を一単位とするのだが、私の場合、日本留学準備演習と近代思想史の二つの演習を修士一年の前期に担当するので、両者をひとまとめにして一回二時間の演習を十二回行…

ミッション・ハンディキャップ

ストラスブール大学ではここ三年ほど、特にコロナ禍が落ち着きを見せキャンパスに学生たちが戻って来たころから、ハンディキャップのある学生たちの受け入れに目立って積極的になった。その基本方針に反対する教員はいない。私ももちろん賛成だ。 しかし、昨…

今日から今年度授業開始

今日から2022/2023年度の授業が始まった。例年より一週間遅いスタートとなった。先週一週間をガイダンスや語学テストにあてたためである。そうしないと八月最終週からガイダンス等を始めなくてはならず、それを避けるための学部レベルでの決定だった。ただし…

日本から帰ってきたら、より速く走れるようになっている

東京での夏休み約一月半の間、滋養のあるものを毎日しっかり食べさせてもらい、さまざまなサプリメントを常に摂取させてもらったおかげだと思うが、こちらに戻ってきてからジョギングの平均ペースが上がっている。意識して上げているわけではない。フォーム…

滞仏丸二十六年 ―「命なりけり」と「命生く」の間

このブログを始めた二〇一三年から毎年九月一〇日には「滞仏丸〇〇年」と題して、来し方を振り返り、行く末を想い、しばし感慨に耽るのを恒例としてきた。今年でそれも十回目を数える。想定外の事態でも発生しないかぎり、あと四、五年はこちらで暮らすつも…

「己のためにのみ感じてはならぬ。さにあらず、汝の感情を鳴り響かせよ!」― ヘルダー『言語起源論』より

シュトラスブルク大学(現ストラスブール大学)法学科学生だった二一歳のゲーテがヨハン・ヴォルフガング・ヘルダーに大聖堂近くのリル川に面した宿ではじめて会ったのは今から二五二年前一七七〇年九月のことだった。この出会いの場面はゲーテの『詩と真実…

誤訳が疑われるたった一箇所を確認するためだけに買った本 ― 「深い」がなぜ「不快」になってしまったか

メルロ=ポンティの『精選 シーニュ』(ちくま学芸文庫 2020年)には詳細な訳注が付いていていろいろと参考になる。ただ、序の訳注に一箇所どうも変なところがあって、それを確かめるためだけにその訳注に引用されていた Maurice Merleau-Ponty, Recherches …

詩人の声に自らの声を重ね合わせて ― 創作と評伝の間

エミリー・ディキンソンの詩の仏訳者として知られた Claire Malroux の Chambre avec vue sur l’éternité. Emily Dickinson, Gallimard, 2005 はとても野心的かつ魅力的な作品だ。 ディキンソンの生涯と詩作品について著者として第一人称で語っているという…

幾匙かの牛乳粥を掬うように

夏休みは遠ざかり、来週から始まる授業の準備その他に追われる日々が始まった。もうゆっくり読書している時間はない。それでも毎日少しは教育・研究上の必要を離れた読書をしないと精神が栄養不足になって心身のバランスが崩れる。一頁あるいは一段落でもよ…

年度初めの所感 ― 方針転換

私が所属する言語学部は、先週すでに新入生ガイダンスを行った一つの学科を除いて、今日が2022/2023年度の仕事始めになる。日本学科は今日午後ZOOMを使って今年度最初の教員会議を行った。明日午後にメインキャンパスの階段教室の一つを使っての新入生ガイ…

読んで勇気づけられる哲学書

七月三〇日から八月五日まで行った集中講義のタイトル「主体の考古学」は、アラン・ド・リベラのまさに記念碑的超大作 L’archéologie du sujet(Vrin, 2007‐, 全七巻中第三巻第一部 L’acte de penser, 1 La double révolution までの三冊が現在刊行されてい…

商業道徳と企業倫理

今日の記事のタイトルはやたらと大げさなのであるが、実際の話題は小さい。 アラン・ド・リベラ(Alain de Libera, 1948-)というフランスの中世哲学の碩学に Penser au Moyen Âge, Seuil, 1991(邦訳『中世知識人の肖像』新評論、1994年)というとても刺激…

一月半振りに体組成計に乗ってみると

31日夜、旅の荷物をすっかり片付けた後、44日間の東京滞在の「成果」や如何と体組成計に乗ってみた。ジョギングはほぼ毎朝励行していたとはいえ、毎日美味しいものを食べさせてもらっていたから体重増は避けられまいと覚悟していたが、見た目も体感もほとん…

北極海域上空11000メートルで想ったこと ― 殺し合い、おのれが生まれた場所を傷つけ、自壊しつつある野蛮な文明

昨日の日本からフランスへの復路は北方航路だった。ウクライナと交戦中のロシア上空を飛行することを避けるためである。往路は同じ理由で南方航路。中近東諸国と中国上空を通過した。13時間以上かかった。復路の予定飛行時間は当初15時間15分となっていたが…