内的自己対話―川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。

2018-10-01から1ヶ月間の記事一覧

人麻呂歌における「花」の観念性はどこから来るのか

万葉集第二期になると、「花」という語の使用例五例は、すべて人麻呂歌あるいは人麻呂歌集所出歌という特異な現象を呈する。 これら五例のうち、巻第一・三八「花かざし持ち」、巻第ニ・一六七「春花の 貴からむと」、同巻・一九六「春へには 花折りかざし」…

王権的立場を詠作する「御言持ち歌人」による大陸的詩的感性の導入

巻第一・一六の額田王歌をもう一度読んでみよう。 冬こもり 春さり来れば 鳴かずありし 鳥も来鳴きぬ 咲かずありし 花も咲けれど 山を茂み 入りても取らず 草深み 取りても見ず 秋山の 木の葉を見ては 黄葉をば 取りてぞ偲ふ 青きをば 置きてぞ嘆く そこし恨…

春山万花の艶と秋山黄葉の彩との美の競いに巧みな決着をつける額田王歌

『万葉歌人の美学と構造』の巻頭を飾る「“花”の流れ」という美しい題が付けられた川口常孝の論文は、「一 記紀歌謡から万葉へ」と「ニ 家持と世阿弥」の二章からなっている。前者は、昭和四十五(1970)年五月の古代文学会例会口頭発表がその基になっており…

生命の顕現の思想 ― 日本文芸史が描いた最初の花のイメージ

『日本書紀』大化五年三月の条によると、父蘇我倉山田石川麻呂が讒言によって山田寺で自害に追い込まれた後、その娘で中大兄皇子妃であった造媛は、傷心の果に亡くなった。その死を甚だしく嘆き悲しむ中大兄皇子の姿を見て、家臣の野中の川原の史滿が歌二首…

万聖節休暇初日、日本学科長としてあるまじき老いの繰り言

仮にも日本学科の長たるものとしてあるまじき発言だというお叱りを受けるであろうことを承知の上で敢えて申し上げたいのですが、大学で日本語および日本文化についていくばくかの知識を身につけたところで、その後の学生たちの職業的人生にとって、それはほ…

結びつきそうにないもの同士を結びつける論理 ― 自己救済のテクニックとしての想像力の論理

ちょっと唐突なのですが、私が学生たちに伝えたいと願っていることは、ただ一つです。それは、自己救済のテクニックとしての想像力の論理です。残念なことに、現実には、ひとえに私の無力ゆえに、ほとんどそれは伝わっていまんせんが。 にっちもさっちも行か…

課題「『平家物語』を生きよ」

今日の午前中、古典文学の筆記試験を行いました。ただ、筆記試験といっても、その設問はかなり特殊だったので、三週間前に授業でどんなことを行い、二週間前に学生たちにどんな課題を与えたのかをまず説明する必要があります。 三週間前の授業で、『平家物語…

無名の民衆によって生きられた歴史をいかに「一人称」で語るか

今回の中間試験問題は、要約すると以下のような問題である。 鎌倉あるいは室町のいずれかの時代を選び、非農業民の中から一つ特定の職業あるいは社会的身分を選択し、その視点に立って、当時の社会の変化を如実に示すある一つの歴史的出来事に即して、特に東…

歴史を「主体的に」学ぶには

日本語学習はそれを主目的とした他の授業に任せるとして、私の授業では、歴史をできるだけ「主体的に」学ぶことをその目的(というか願い)としている。そのために、単なる暗記作業は一切要求しない。そのかわり、歴史の中に自ら身を置いて、感じ、想像し、…

新カリキュラム導入にともなう移行措置とそれに伴う問題

今年度前期、学部最終学年である三年生の授業を三コマ担当している。「古典文学」「近代日本の歴史と社会」「日本文明文化講座」の三コマである。今週は、他の多くの科目と同様、それらの科目の中間試験を行う。古典文学の課題については、今週木曜日の試験…

〈結び〉のアルケオロジー、あるいは〈生成・生産・形成〉の古代的原理の隠蔽

高御産巣日神と神産巣日神は、記紀の神代巻に天之御中主神に続いて出現するいわゆる造化三神の中の二神だが、この二つの神名に共通して出てくる「産巣日 ムスヒ」は、『岩波古語辞典』(1990年)によれば、「《草や苔などのように、ふえ、繁殖する意。ヒはヒ…

かぐや姫の罪と罰、あるいは積極的無常観について

昨日金曜日の「日本文明文化講座」では、来週の試験のための資料提示として高畑勲の『かぐや姫の物語』の一部を見せながら、作品の細部について解説を加えつつ、学生たちにいろいろな問いを投げかけた。 学生の大半は同作品をすでに観たことがあり、中には繰…

どこまでも柔軟に概念を生動させる創造的思考を通じて成熟し続ける一つの開かれた「〈結び〉の哲学」

「エラン・ヴィタル」(« élan vital »)という表現そのものの使用例が、『創造的進化』ではわずか2例であったのに対して、『道徳と宗教の二つの源泉』(以下、『ニ源泉』と略す)では11例を数えることができることは、三日前の記事ですでに言及した。『二…

〈結び〉と〈異なり〉の持続的相補性としてのエラン・ヴィタル

『創造的進化』からもう一箇所取り上げよう。同書でエラン・ヴィタルという言葉が使われている二箇所のうちの一つである。 Ainsi, dans des organismes rudimentaires faits d’une cellule unique, nous constatons déjà que l’individualité apparente du t…

〈結び〉の原理としてのエラン・ヴィタル

しかし、先を急がずに、今一度、『創造的進化』第一章最終節冒頭部を読んでみよう。エラン・ヴィタルが差異化の原理であるばかりでなく、〈結び〉の原理でもあることをすでにそこから読み取ることができる。 Nous revenons ainsi, par un long détour, à l’i…

『創造的進化』と『道徳と宗教の二つの源泉』における « élan vital » の使用例について

『創造的進化』には、確かに、第一章最終部分に« L’élan vital » という項目が頁上に記された節があり(88-98頁)、そこで視覚器官の形成過程をその適用例としてエラン・ヴィタルとは何かが説明されている。昨日の記事での最初の引用もこの節からであった。…

〈結び〉とは違い、エラン・ヴィタル(生命の弾み)は、なによりもまず差異化の運動である

ベルクソンのエラン・ヴィタルは、ドゥルーズが『ベルクソニスム』第五章 « L’Élan vital comme mouvement de la différenciation » (Le bergsonisme, PUF, 1966, p. 92-119) で明確に指摘しているように、なによりもまず差異化の運動であるから、そのままで…

〈結び〉とエラン・ヴィタル(生の躍動)― 学生が放ったクリーンヒット

昨晩は早めに就寝した。今朝はいつものように五時起床。まず昨晩届いていたメールをチェックしていて、件名が「Musubi-Bergson」となっているのが一通あって、誰か哲学グループのメンバーからかなと思って開けてみて、ちょっと驚いた。日本学科学部三年生の…

「結ぶ」、「繋がる」、そして死者と生者の共生 ―『君の名は。』『ちはやふる』『僕だけがいない街』などをめぐって(下)

一方、「繋がる」の方は、完結編「結び」のDVDとブルーレイが10月3日に発売された『ちはやふる』(私が購入したのは同時発売の完全版の方。予約注文しておいたら、なんと発売二日後の5日にストラスブールに届いた)を「教材」として取り上げた。実写版は、三…

「結ぶ」、「繋がる」、そして死者と生者の共生 ―『君の名は。』『ちはやふる』『僕だけがいない街』などをめぐって(上)

今日の「日本文化文明講座」(実のところは、「日本事情」とか、ちょっと古めかしく言えば、「日本記聞」くらいがむしろ適当)では、フクシマ・東日本大震災以後の日本で頻繁に使われるようになったと私に思われる言葉とそれらに込められた意味について話し…

入力重視の授業から出力促進の授業への転換ための一つの試み ― 古典文学の講義を通じて

授業の準備と試験問題作成の際、ある知識をそのまま覚えさせるのではなく、理解し覚えたことをその後さまざまな仕方で使えるようになりたいという気持ちに学生たちをさせるにはどうすればよいのかと常々考えている。 授業のレベル・目的・分野によって事情も…

「あの美しいシャボン玉をこわさぬように」― 小泉節子「思い出の記」より

ラフカディオ・ハーンの妻小泉節子が残した「思い出の記」は、ハーンの人となりと彼の創作現場を知る上でこの上なく貴重な証言であるばかりでなく、読んでいてはっとするような印象的な表現が所々に出てきて、それがこの聞き書きをとても魅力的な読み物にし…

『居酒屋ばあば樹木希林』、『人生フルーツ』、そして『おくりびと』― 問題を「動詞で」考える

先週金曜日の「日本文化・文明講座」では、今日の記事のタイトルに掲げた番組・映画のごく一部を、日本語での私の解説を交えながら、学生たちに観させました。〈生きる〉とは、〈住まう〉とは、〈暮らす〉とは、〈食べる〉とは、〈人と共に生きる〉とは、〈…

日本人教師による日本語のみの日本文化・文明講座

九月から新しいカリキュラムになり、その中に日本語の語学授業以外で日本語だけで行われる講義が初めて導入されました。学部三年生(フランスの大学では学部最終学年)の一コマ一時間だけですが、弊日本学科創設三十二年を経て初めての試みであります。 新カ…

クロノスにおいてカイロスを捉える操作時間の実践形式の一つとしての和歌

万葉の歌人たちも平安朝の歌人たちも、自分たちの詠んだ歌が千年先もなお読まれ続けるだろうとは想像だにしなかっただろう。いずれもそれぞれにその時に応じて詠まれた歌だったのだから。あるいは自分の死後も自分の歌が永く読み継がれることを願った歌人た…

カイロスとクロノス(20)― 終末の前にまだ何かを為し得る僅かな残り時間の共有がメシア的共同体の可能性の条件である

新約聖書の「コリントの信徒への手紙一」第七章二十九節にある「定められた時は迫っています」(新共同訳)のギリシア語原文 « ὁ καιρὸς συνεσταλμένος ἐστίν » で使われている « συνεσταλμένος » には、海事・航法用語として「帆を絞り綱で絞る、縮帆する」…

カイロスとクロノス(19)― メシア的時間、それは私たちが私たち自身である時間である

以下、アガンベンの著書の仏訳 Le temps qui reste の119頁から120頁にかけての一頁弱をほぼそのまま訳しただけである。 メシア的時間は、それゆえ、時系列的な時間の線ではない。この線は表象可能だが、思考不可能だ。他方、その時間の終わりでもない。これ…

カイロスとクロノス(18)― メシア的時間、それは時間の表象を終わらせるための時間である

昨日の記事まで四日間にわたって、ギュスターヴ・ギヨームにおける操作時間についてのアガンベンの説明を、講義の準備や雑務の合間を縫って、少しずつ読んできた。正直なところ、いまだによく理解できているとは言えない。しかし、今はこれ以上理解を深める…

カイロスとクロノス(17)― 思考においては完全な自己同一はけっして成立しない

バンヴェニストが言うように、もし発話行為が主観性と意識の基礎なのならば、発話行為に必然的に伴う思考と発語形成との間の〈ずれ〉或いは後者の前者に対する〈遅れ〉は、主観の構造の構成要素を成している。思考はつねに言語行為として成り立つのであれば…

カイロスとクロノス(16)― 失われた時間性を取り戻すために

ギヨームの操作時間という概念は、時間性を失った空間的表象に再び時間を取り戻させる。それだけではなく、言語は己自身の生成の操作時間に自らを関係づけることができるという発想は、バンヴェニストの言語理論に基礎づけを与えるものでもある。 言語は、発…