2014-07-01から1ヶ月間の記事一覧
世界に〈現われること〉が自己外化であるかぎり、自己身体の内的空間に対して超越的な世界は、己の内に現われるすべてのものに対して非受容的であり無関心なままである。ところが、種々の形からなる構成形態として自己限定することによって、世界は、行為的…
私たちは、ようやく、三月三日に起稿された本稿全体の結論を述べることができるところまで辿り着いた。 ここまで、西田哲学を主にフランス現象学の系譜に連なる三人の哲学者、メーヌ・ド・ビラン、メルロ=ポンティ、ミッシェル・アンリと対質させることを通…
3. 6 自覚からも行為的直観からも逃れる広がり(6) ところが、このように規定されうる自己身体の内的空間に相当する概念を西田のテキストの中に見出すことはできないのである(本稿第三章第二節から第四節まで参照)。行為的直観の世界において行為的・受容…
3. 6 自覚からも行為的直観からも逃れる広がり(5) 西田において、自覚が私たちの身体的自己において行為的直観と同一化されるのは、世界が私たちの行為的・受容的身体にとって自己形成的な形の世界として己自身に対して現われるときである(本稿第二章3.…
3. 6 自覚からも行為的直観からも逃れる広がり(4) 西田の言う否定的自覚は、〈他なるもの〉から己を区別し、距離なく直接的に己自身を経験するに至るが、この否定的自覚は、神秘的合一感のようなものではまったくなく、私たちの自己において、行為的直観に…
先ほど投稿した二六日付の記事が滞在中の提携大学ゲストハウスからの最後の記事になる。今日二六日土曜日朝一番の関空発羽田行きで東京に戻る。 昨日金曜日夕刻からの日本語研修プログラム参加学生たちの送別パーティーへの出席が、現在の勤務大学の教師とし…
3. 6 自覚からも行為的直観からも逃れる広がり(3) しかしながら、昨日見た行為的直観の哲学は、歴史的生命の論理が、私たちの身体的自己において経験される矛盾的自己同一によって、生命と世界との区別、つまり生命の直接的自己感受と世界の多様な立ち現わ…
3. 6 自覚からも行為的直観からも逃れる広がり(2) 私たちの身体は、二重の意味で、世界への存在である。まず、世界は、道具と技術を介して、私たちの身体の延長であるという意味において。そして、それと同時に、逆に、私たちの身体は、まさに道具として世…
3. 6 自覚からも行為的直観からも逃れる広がり(1) 行為的直観を人間の根源的な存在様式とする西田哲学は、ミッシェル・アンリに典型的に見られるような内部と外部との存在論的切断に対する根本的な批判を含んでいる。以下において、西田哲学の立場からアン…
3. 5 二つの次元に引き裂かれた身体(6) ミッシェル・アンリが不可疑の前提として自らの哲学に課した、内部と外部との間の徹底的な存在論的切断について昨日まで見てきたところから、私たちは次のようにアンリに問わなくてはならないだろう。この切断そのも…
3. 5 二つの次元に引き裂かれた身体(5) 自己身体の内的空間は一つの内的な広がりであり、その広がりは諸器官として自己差異化し、これらそれぞれの器官は広がりが意志の努力に対して譲歩するそれぞれに異なった仕方に対応している。意志された努力という原…
3. 5 二つの次元に引き裂かれた身体(5) ミッシェル・アンリの生命の哲学の内部に立ち入るためには、内部と外部との根本的な断絶、そして不可視の生命と絶対的主体性との同一性を、どうしても不可疑な前提として受け入れなくてはならない。と同時に、徹底的…
3. 5 二つの次元に引き裂かれた身体(4) もし生命が「私たちに己を与えるのに、己自身以外何も必要とはしない」(Philosophie et phénoménologie du corps, op. cit., p. VI)のならば、生命は私たちに何も与えはしない。なぜなら、生命の自己贈与において…
3. 5 二つの次元に引き裂かれた身体(3) 私たちは、ここまで努めてアンリの意図に沿って理解を試みてきた絶対的生命の「超-受容可能性」という概念に対して、今や以下のような根本的な批判を向けなければならない。 絶対的生命の超-受容可能性がもたらす…
六月四日の記事でも触れたことだが、いつも日本時間で午前零時に投稿することを習慣としているので、日本とは七時間の時差(夏時間の間)があるフランスでは、日本のその時刻は前日の午後五時である。だから、今日の連載記事も日付上は十八日になっているけ…
3. 5 二つの次元に引き裂かれた身体(2) 身体の現われが世界の現われに準ずる現われとして理解されるのではなく、まさに生命の現われの一つの発現として自覚されるとき、私たちの身体についての考え方に転換が起こる。この転換は、私たちの自己身体が世界を…
3. 5 二つの次元に引き裂かれた身体(1) 身体は、それが私たち自身の身体であれ、他者の身体であれ、世界の中で私たちにその姿を現す。その世界に現われる身体は、己自身の現象学的諸性格の所有者、世界の現象学的諸属性を把持する主体、そして何よりもまず…
3. 4 原初的な受苦 ― 諸々の苦しみの届かぬ底にあるもの(3) ミッシェル・アンリにおける受苦は、私たちの個別的な生命の一切の具体的内容とまったく独立に生きられる。互いに異なり、互いに対立し合い、しかも次から次へと移りゆき揺れ動く諸々の感情の底…
3. 4 原初的な受苦 ― 諸々の苦しみの届かぬ底にあるもの(2) 生きること、それは「己自身を苦しむ」ことである(L’essence de la manifestation, op. cit., p. 590)。受苦こそ生命の本質である。こうミッシェル・アンリは主張する。 この主張に対して、私…
3. 4 原初的な受苦 ― 諸々の苦しみの届かぬ底にあるもの(1) 昨日の記事で見たような西田からミッシェル・アンリへ向けられるであろうその生命概念と主体性概念とに対する仮想的な批判は、それが身体の問題に適用されるとき、両者の哲学にとって決定的に重…
3. 3 自己開示的生命 ― 他者への回路の欠落(5) 西田による真実在の定義を生命のそれとして読むとき、ミッシェル・アンリの生命の哲学に対して、西田の立場から次のような根本的批判が向けられることであろう。 真実在は、己自身の自己否定によって完全に自…
3. 3 自己開示的生命 ― 他者への回路の欠落(4) ここでまず思い起こすべきことは、西田の真実在の定義によれば、それ自身によって在るところのものは、本質的に、己の内に他なるものをそれとして含んでいなければならないということである。もし、それ自身…
3. 3 自己開示的生命 ― 他者への回路の欠落(3) もし、生命が、「すべてがそれに依存し、それ自身は何ものにも依存しない」(L’essence de la manifestation, op. cit., p. 816)真実在として定義されるとすれば、アンリが言うような、「自己の外」を自己か…
3. 3 自己開示的生命 ― 他者への回路の欠落(2) 生命の顕現へと至る途はどのようなものなのか。それは、端的に、生命そのものである。生命は、それ自らの内で己自身に己を顕現させる。そこにあるのは、現実への段階的な接近ではない。そうではなく、顕現そ…
3. 3 自己開示的生命 ― 他者への回路の欠落(1) ミッシェル・アンリによれば、それのみが現実を与える感覚への呼びかけには、それ自体のうちに、生命への呼びかけが、つまり、世界の現われとは根源的に異なった現われ方への呼びかけが隠されている。アンリ…
3. 2 世界の現われ ― 生命の外化(8) しかし、まさにそれゆえにこそ、私たちが先に立てた、主体性に対する世界の現象性の場所と様態に関する一連の問い(7月5日の記事参照)に対して、ミッシェル・アンリからまだ答えが得られないままである。しかも、表象…
3. 2 世界の現われ ― 生命の外化(7) 昨日の記事の最後に立てた問いを解くために、ミッシェル・アンリは、カントに倣って、感覚に現実産出の役割を配当する。しかしながら、まさにこの点において、アンリがカントからどの方向へと離れていくかをよく見て取…
3. 2 世界の現われ ― 生命の外化(6) ミッシェル・アンリは、昨日の記事の最後に立てられた問いに対して、カントによって入念に規定された感覚の審級に言及しつつ、自身の哲学に引きつけた解答を提出している。アンリによれば、世界の現われの存在論的な貧…
3. 2 世界の現われ ― 生命の外化(5) 昨日までの三日間、一日一つずつ見てきた世界の現われの三つの特質 ― 絶対的外在性・全体的無関心・根源的貧しさ ― は、明らかに、ミッシェル・アンリが内在と超越との間に見ている断絶を前提とし、そこから導き出され…
3. 2 世界の現われ ― 生命の外化(4) 世界の現われの第三の特質は、次のように規定される。自己外在化として展開される世界の現われにおいては、何ものによってもそれ自身から引き離されることの決してない超越的生命のようなものが原理的に不可能になる(v…