内的自己対話―川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。

2014-01-01から1年間の記事一覧

And the Life goes on ― たまゆらの記(九)

「幽明界を異にする」という表現がある。「幽」があの世を、「明」がこの世を指し、それぞれ異なった世界に別れること、つまり死別を意味する。一般的には、「幽界」は、「冥界」「冥土」の類義語、死んだ人たちが行く世界を意味し、この世を意味する「顕界…

Life is good ! 善き哉、人生! ― たまゆらの記(八)

その人が長年幼稚園で共に働き、そして四十年余りに渡って、常に心の支えとして、頼りとし、相談し、励まされ、その人の家族も皆、一方ならぬお世話になっている方に、その人の葬儀の中で、「送る言葉」をいただいた。それはその人のたっての願いでもあった…

遺言ノート ― たまゆらの記(七)

その人は、今月に入ってから、身近な人たち一人一人に遺す言葉を「遺言ノート」に、丁寧な字で、思いを込めて、書き付けていった。その死後、それらの人たちは、それぞれ、自分に遺されたその人の言葉を読んだ。 その「遺言」の宛先の一人である二十歳になる…

償うことさえできず ― たまゆらの記(六)

その人の生き方を、少しでも、たとえ拙い仕方ででも、言葉にしておきたい、と息子は思う。 しかし、それは、贖罪のためではない。その人に歯の浮くような頌歌を捧げることや、その人を無欠の聖人として祭壇に祭りあげることで、自ら負うべき重荷を軽減したり…

「日記」という意志 ― たまゆらの記(五)

その人は、数十年にわたって、毎日、ただの一日も欠かすことなく、日記を付けていた。集文館の赤い表紙の小型三年活用新日記を愛用していた。一日八行、その日の出来事が時系列に沿って、簡潔に記されている。旅行にも携行し、旅先で付けていた。あるいは、…

汝は塵なれば、塵にかへるべきなり ― たまゆらの記(四)

今日、その人の死せる肉体は、嫁して後六十年近くを過ごした土地を最終的に離れ、地の塵へとかえる。しかし、その人をこの世に生かした命は、そこに残された者たちを、湧き出る泉のごとく、生かし続ける。

記憶の「泉」― 覚えられた千二百人の子供たち たまゆらの記(三)

その人は、単なる一在園児の母に過ぎなかった三年間を除いた、最初のきっかけであった事務手伝いというパートタイムのときから数えれば、四十年間、ある幼稚園に関わり続けた。もうすぐ八十に手が届くという年齢になって、周囲に切望され、とうとう園長にな…

「すべてよし」 ― たまゆらの記(二)

すでに自分の死が間近に迫っていることを明白に自覚していたその人は、連日訪れる多数の見舞客を、その都度、満面の笑顔で、「来てくれてありがとう。会えてよかったわ」と迎えながら、それらの人たちの手を両手で握り、しばらく思い出話に花を咲かせていた…

花摘む乙女の呼び鈴 ― たまゆらの記(一)

八四才の誕生日を迎える今月まで、癌に侵されていることを知りつつ、可能なかぎり自宅で自律した一人暮らしを続けていたその人は、今月初めより、自律歩行が困難になり、自宅での在宅医療・看護を受けるようになった。それ以来、その娘は泊まり込み、付きっ…

長い一日

今日、夕方、八四歳の生涯を閉じた人の最期を、幸いにも、妹とともに、その人の自宅の寝室の枕辺で、看取りました。本当に長い間ありがとうございました。

宗教的自由の原理について ― ジャン・デ・カー『マルゼルブ』から

Jean des Cars, Malesherbes. Gentilhomme des Lumières, Éditions Perrin, 2012(初版はマルゼルブの没後二百年にあたる一九九四年に Éditions de Fallois から出版されている)は、伝記作家として著名な著者が、自身マルゼルブの血筋を引く一族の生まれだ…

『マルゼルブ フランス一八世紀の一貴族の肖像』(承前)

昨日紹介した木崎喜代治『マルゼルブ フランス一八世紀の一貴族の肖像』は、初版の復刊、あるいは、より広い読者が期待される「岩波現代文庫」としての復刊が是非望まれる一冊である。 一九八六年に出版された同書は、今でも、マルゼルブの思想と行動とを理…

『マルゼルブ フランス一八世紀の一貴族の肖像』

12月10日のトクヴィルについての記事の中で言及したマルゼルブについては、日本語での本格的研究は今でもそれほど盛んとは言えないようであるが、木崎喜代治『マルゼルブ フランス一八世紀一貴族の肖像』(岩波書店、一九八六年)は、膨大な当時の資料からマ…

人間経験把握の三つの契機 ― ジャン=ルイ・クレティアン『内的空間』を読む(六)

ジャン=ルイ・クレティアンによれば、「心の部屋」という空間表象が西洋精神史において決定的な重要性をもつのは、単にその表象が福音書の一節の解釈に始まっているからではない。それだけのことなら、歴史的関心の領域を超えるものではない。 そこで決定的…

「魂の経済」 ― ジャン=ルイ・クレティアン『内的空間』を読む(五)

マタイ福音書の「己が部屋にいり」を聖書の他の箇所と整合的に解釈するために、その「己が部屋」を心という「内的部屋」だとする解釈が、ラテン教父たち ― 例えば、四世紀のポワティエのヒラリウスやアウグスティヌスに洗礼を授けたミラノのアンブロジウスな…

聖書における解釈の葛藤 ― ジャン=ルイ・クレティアン『内的空間』を読む(四)

昨日見たマタイによる福音書第六章第六節の「己が部屋にいり」の箇所は、人間の行為の表象としては、旧約聖書のイザヤ書第二十六章第二十節の反響と見なすことができるかもしれないが、問題は、〈自分の部屋に入る〉という行為の意味が旧約と新約とでまった…

「なんじは祈るとき、己が部屋にいり」― ジャン=ルイ・クレティアン『内的空間』を読む(三)

昨日の記事で取り上げた「心の部屋」は、福音書に由来する表現だが、しかし、それは、間接的な仕方でのことである。この表現の起源は、「マタイによる福音書」の第六章第五、六節の或る解釈にあるのである。この箇所は、他の福音書に並行記事がない。その或…

「心の部屋(cubiculum cordis)」― ジャン=ルイ・クレティアン『内的空間』を読む(二)

初期キリスト教会の教父たちがラテン語で « cubiculum cordis »(心の部屋)と名づける表象は、精神的内在性に関する空間表象として、西洋思想史において最も重要で最も持続性がある表象であるとジャン=ルイ・クレティアンは言う(J.=L. Chrétien, L’espace…

西洋哲学における〈心〉の表象史 ― ジャン=ルイ・クレティアン『内的空間』を読む(一)

いかに現代の哲学が、様々な立場の違いを超えて、その一般的な傾向として、魂・心・精神・意識等を人間の純粋な内部・内面としてそれら以外である外部と区別し両者を対立させるという、いわゆる二元論的構図に対して批判的であるとしても、私たちの日常の言…

王家に連なる一族の末裔の娘への叶わぬ愛 ― トクヴィルとネルヴァルにおける「失われた時」(三)

昨日読んだ「アドリエンヌ」前半に引き続き、今日はその後半を読む。 À mesure qu’elle chantait, l’ombre descendait des grands arbres, et le clair de lune naissant tombait sur elle seule, isolée de notre cercle attentif. — Elle se tut, et perso…

ヴァロアの古国に響くフランスの心 ― トクヴィルとネルヴァルにおける「失われた時」(二)

ネルヴァルの名作『シルヴィ(Sylvie)』は『火の娘たち(Les filles du feu)』という作品集に収められており、邦訳は筑摩書房のネルヴァル全集第五巻に収録されている。「ちくま文庫」からも『火の娘たち』が出版さているが、どちらも未見なので、同一訳な…

高貴なる感情としての〈王〉への臣従 ― トクヴィルとネルヴァルにおける「失われた時」(一)

トクヴィルとネルヴァルは、十九世紀前半という同時代を生きたフランス人であるが、両者の間に生前何らか直接的な接点があったわけではないようである。それぞれの出自や生きた世界の違いからすれば、それも当然のことだと思われるが、まさにそうであるから…

崇高なるものへの尊崇の念を呼び起こす星々の輝き ― エマーソンの哲学的まなざし

エマーソンの処女作は、Nature と題され、一八三六年、三十三歳のときに発表された。このエッセイの中にその後エマーソンが展開する主要な思想的テーマがすでにはっきりと示されている。短いイントロダクションの後、本文は八節に分けられていて、それぞれ «…

アメリカ・プロテスタンティズムにおける社会順応主義批判の淵源の一つ ― トクヴィルからエマーソンへ

トクヴィル自身はノルマンディー地方の由緒ある貴族の生まれで、フランス革命時に一族の主だった人々は処刑されてしまった。革命の十六年後に生まれたトクヴィルは、自分が没落階級に属していることをはっきりと自覚しつつも、その階級にこそ見られる高貴な…

「今ここになきものへの思慕」 ― エマーソン、トクヴィル、ネルヴァルを読みながら

十九世紀前半のフランスの政治思想家アレクシ・ド・トクヴィル(1805-1859)の優れた知的伝記(biographie intellectuelle)である Lucien Jaume, Tocqueville. Les sources aristocratiques de la liberté, Fayard, 2008 には、トクヴィルの同時代のアメリ…

世阿弥『花鏡』における「初心不可忘」論(三)― 老後の初心

『花鏡』「奥の段」の最後に出てくる「初心不可忘」論の三番目のテーゼは、「老後の初心を忘るべからず」である。 老後の初心を忘るべからずとは、命には終はりあり、能には果てあるべからず。その時分時分の一体一体を習ひわたりて、また老後の風体に似合ふ…

世阿弥『花鏡』における「初心不可忘」論(二)― 時々の初心

『花鏡』結論部分に「万能一徳の一句」として示される「初心不可忘」の第二の下位テーゼは、「時々の初心を忘るべからず」である。 時々の初心を忘るべからずとは、これは、初心より年盛りの頃、老後に至るまで、その時分時分の芸曲の、似合ひたる風体を嗜み…

世阿弥『花鏡』における「初心不可忘」論(一)― 是非の初心

世阿弥の言葉としてよく知られた「初心不可忘」は、『風姿花伝』の中の言葉として紹介されるのが普通だが、世阿弥芸能論中期の最重要著作『花鏡』の結論部分に再び登場し、そこには『花伝』には見られなかった議論が展開されている。『花伝』が亡父観阿弥の…

人種理論の起源再考 ― 聖書からダーウィンまで

アンドレ・ピショ(André Pichot)の Aux origines des théories raciales. De la Bible à Darwin, Flammarion, 2008 を読み始める。 この著者の著作中邦訳されているのは、『科学の誕生』(上・下、せりか書房、一九九五年。原書は La naissance de la scie…

前期最後の授業を終えて

冬の寒さがやってきた。朝は気温が二、三度まで下がるようになった。日中も四度までしか上がらない。日の出時間は八時、日の入りは四時三十六分。終日雲に覆われた灰色の空。風はない。 昨日も今日も朝七時からいつもの屋外プールで泳ぐ。一旦温水プールの中…