内的自己対話―川の畔のささめごと

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どこまでも柔軟に概念を生動させる創造的思考を通じて成熟し続ける一つの開かれた「〈結び〉の哲学」

 「エラン・ヴィタル」(« élan vital »)という表現そのものの使用例が、『創造的進化』ではわずか2例であったのに対して、『道徳と宗教の二つの源泉』(以下、『ニ源泉』と略す)では11例を数えることができることは、三日前の記事ですでに言及した。『二源泉』では、エラン・ヴィタルとは区別されるべき概念として、「愛のエラン」(« élan d’amour »)と「創造的エラン」(« élan créateur »)とが導入される(三日前の記事を投稿した時には、後者の使用例を3例としたが、今日あらためて検索し直したら、さらに2箇所見つかったので、5例に訂正した)。これらの概念との差異化によって、エラン・ヴィタルはより明確に限定された概念として『ニ源泉』の中で機能している。
 これら二つのエラン概念とエラン・ヴィタルとを合わせて一つの哲学として考えるとき、そして、〈純粋持続〉と〈記憶〉もその中の有機的要素として捉え、〈哲学的直観〉をその方法の基礎とするとき、ベルクソンの哲学を、どこまでも柔軟に概念を生動させる創造的思考を通じて成熟し続ける一つの開かれた「〈結び〉の哲学」として読むことが可能になるだろう。
 ちくま学芸文庫版『創造的進化』の訳者の一人である松井久がその解説の中で、「つなぐ」と「結びつける」という二つの動詞を使ってベルクソンの考えを次のように説明しているのはけっして偶然ではないと私には思われる。

ベルクソンはみずからの意識に目を向け、普段は目立った心理状態しか意識に上らないが、注意してみると、互いに区別される心理状態などなく、絶えず変化する連続しかないことに気づく、そして、各瞬間をつなぎ、過去全体を現在に結びつける記憶力、あるいは持続と呼ばれる時間こそがわれわれの実在そのものであると考える。この記憶力、持続が毎瞬間訪れる現在を過去に取り込み、絶えず人格全体を変化させる。こうして、われわれの意識にとって、「存在するとは変化することであり、変化するとは成熟することであり、成熟するとは無際限に自分を創造することである」という結論に至る。

 ここに引用されているベルクソンの言葉の原文を引用しておこう。

[…] exister consiste à changer, changer à se mûrir, se mûrir à se créer indéfiniment soi-même (L’évolution créatrice, op. cit., p. 7).