以下、アガンベンの著書の仏訳 Le temps qui reste の119頁から120頁にかけての一頁弱をほぼそのまま訳しただけである。
メシア的時間は、それゆえ、時系列的な時間の線ではない。この線は表象可能だが、思考不可能だ。他方、その時間の終わりでもない。これもまた思考不可能だ。しかしまた、時系列的時間から控除されたその一部でもない。それは表象から時間の終わりへと行くだけだ。
メシア的時間とは、むしろ操作時間である。この操作時間が時系列的時間の内部に発生し、時系列的時間に作用し、それを内部から変容させる。それは、私たちが時間を終わらせるために必要とする時間なのだ。この意味で、それは「私たちに残された時間」である。
私たちがもっている時系列的時間の表象は、その時間が私たちにとってその中で生きている時間であるかぎりにおいて、私たちを私たちから引き離し、私たちを自分たちに対して無力な観衆にしてしまう。逃げ去る時間を時間なしに眺め、自らがそこにはどこまでいっても不在であることをただ眺めているばかりだ。
それに対して、メシア的時間は、まったく反対に、時間の私たち自身に固有な表象を捉え、それを仕上げる操作時間として、私たちが私たち自身である時間である。それゆえ、これこそが唯一現実的で私たちが所有している的時間である。