
「オプティミズム」という言葉がヨーロッパ言語に登場するのは18世紀前半のことで、最初はライプニッツの『弁神論』に見られる考え方を指していた。それを批判したヴォルテールの哲学小説のタイトル Candide ou l’Optimisme に用いられたのが1758年のことである。
『世界大百科事典』(平凡社)では、「オプティミズム」は以下のように説明されている。
楽天主義,楽観主義と訳される。ラテン語のオプティムスoptimus(最善の意)に由来し,世界や人生の価値や意義を究極的には肯定的に認める立場をいい,日常の用語としては,ものごとや事態のなりゆきをすべて良い方向に考える心理的傾向をいう。哲学の分野では古来諸種のタイプが知られるが,ライプニッツの学説に見られる考え方が典型的である。ライプニッツによれば,神は神の知性のうちにあるすべての可能な世界のうちから,最善の世界を選び創造した。この世界には部分的に見れば,悪や災いが存在すると思われるとしても,それらはより高い善や幸せに役立つべきものであり,世界は全体として最も大いなる完全性の実現を目ざす限りなき進歩のうちにある。この見方は,もしこの世界が最善の世界ではないとすれば,神は最善の世界を知りえなかったか,創造しえなかったか,創造しようと望まなかったかのいずれかであるが,そのことは神の全知,全能,至高の善意志に反するとする〈弁神論〉の思想と深く結びついている。一般的見方としては,世界は根本において善であり,この世において究極的には善が悪に打ち勝つゆえ,世界が存在することは,世界が存在せぬことより望ましいとする説であり,世界における悪の優越性または根源性を説くペシミズムに対比的な考え方である。(増永洋三)
この説明によれば、「オプティミズム」と形容できる哲学思想は古代からあったわけだが、翻って、現代世界ではどうであろう。積極的にオプティミズムを標榜している思想はあるのだろうか。そもそもそれは今でも可能なのだろうか。
私がこの言葉を聞いてまず思い出すのは、昨日の記事で紹介したチェスタトンの文章であるが、それは中世のトマス神学を形容するためであった。オプティミズムあるいは楽観主義という言葉を聞いてもう一つすぐに思い出すのが、アランの『定義集』(1953年)である。そのなかでアランは次のようにオプティミズムを定義している。
Jugement volontaire par lequel on repousse le pessimisme naturel. L’optimisme est souvent vaincu par la souffrance, la maladie et la mort ; mais il triomphe justement là où le pessimisme aime à croire qu’il va l’emporter, dans le jugement sur les hommes ; car on peut toujours comprendre et sauver son semblable si on le veut bien, au moins en ce qui dépend de nous. À bon droit, on refusera d’interpréter en mal même les pires apparences, et on y cherchera le bien ; à bien regarder, cette faveur n'est que justice ; plus exactement la recherche de cette faveur n’est que justice, d’après le plus beau des soupçons, à savoir que ce qui est misanthropique est faux.
アランのこの定義を私なりに少し自由に説明を付加しながら訳すと次のようになる。
オプティミスムとは、人間にとって自然な傾向である悲観主義を退ける意志的判断のことである。オプティミスムは、苦しみ、病気、死によってしばしば打ち負かされる。ところが、悲観主義が己の勝利を信じたいところで、つまり人間に対する判断において、実は楽観主義がまさに勝利する。なぜなら、人は、自らそれを欲するならば、少なくとも自分次第でどうにかできることについては、つねに同胞を理解し、救うことができるからである。当然のこととして、人は見たところ最悪の事態でさえ悪い方向に解釈することを拒否し、そこに善を求めることができる。善を願う意志が正義である。より正確には、善への願いを保ちつづける意志が正義なのだ。この正義を求める意志は、「人間嫌いは間違いではないのか」という疑念、つまり、自然な傾向である悲観主義は間違っているのではないかという疑念、数多の疑念のなかでももっとも美しい疑念によって動機づけられている。
この定義は「悲観主義(pessimisme)」の以下の定義と対をなしている。
Est naturel et abonde en preuves, puisque nul n’est jamais à l’abri du chagrin, de la douleur, de la maladie ou de la mort. Le pessimisme est proprement le jugement d’un homme qui n’est pas, présentement, malheureux, mais qui prévoit ces choses. Le pessimisme se traduit naturellement en système, et se plaît (si l’on peut dire) à prédire la mauvaise issue de tout projet, de toute entreprise, de tout sentiment. Le fond du pessimisme est de ne pas croire à la volonté. L’optimisme est tout volontaire.
自然的なもので、それをあかしするものはいっぱいある。なぜなら、だれもみな悲しみ、苦悩、病気、死をまぬがれ得ないから。悲観主義は厳密に言えば、現在は不幸ではないが、これらのことを予見している人間の判断である。悲観主義は自然と体系のかたちで表現されて、(そう言ってよければ)好んであらゆる計画、あらゆる企て、あらゆる感情の悪い結末を予言する。悲観主義の本質は意志を信じないことである。オプティミスム〔楽観主義〕はまったく意志的である。(『定義集』、神谷幹夫訳、岩波文庫、2003年)