私の読書の仕方はしばしば芋蔓式です。方法とは言えません。ある本のある一語あるいは一文が気になって、それについて調べるために別の本を幾冊か読み、それらの本に参考文献として挙げられている論文や書籍へとさらに読書の範囲が広がり、その広がりの中で一つの蔓を辿り続けます。ですから、しばしば終わりがなく、かといっていつまでも蔓を辿り続ける時間も現実にはないので、途中でその蔓を手放し、また別のきっかけで別の蔓を辿り、それを途中で投げ出すということを繰り返しています。結果として、私の机の上にはそのようにして投げ出された蔓が何本も絡み合っており、それらの蔓に私自身もまた絡み取られて身動きが取れなくなって往生しては溜息をついています。そんな読書が私の日常の大半を占めています。だから何をやっても中途半端で駄目なのです。昨日の話題との繋がりで言えば、芋蔓を辿っているときの楽しさにかまけて、本当に向き合うべき問題から逃げ回っているだけなのかも知れません。この歳になってこの体たらくはさすがに情けないとつくづく思います。
それはさておき、一昨日、授業の準備をしていて、鴨長明『方丈記』のフランス語訳(Notes de ma cabane de moine, Traduit du japonais et annoté par le Révérend Père Sauveur Candau. Postface de Jacqueline Pigeot, Le Bruit du temps, 2010)を読み直していて、『方丈記』以外の長明の作品の仏訳を確認しようとネット上で検索すると、『無名抄』も『発心集』も同じ出版社からそれぞれ Notes sans titre, Récits de l’éveil du cœur というタイトルで2010年と2014年に刊行されていました。この二作品を授業で取り上げるわけではないのですがが、一応参照はしておきたいとFNACに注文しました。
原文も確認しておこうと以前に購入してあった角川ソフィア文庫版の『発心集』(浅見和彦・伊東玉美=訳注、二〇一四年)と『無名抄』(久保田淳=訳注、二〇一三年)の電子書籍版を開いてみました。
『発心集』序の冒頭に、仏の教えとして「心の師とはなるとも、心を師とすることなかれ」という一文が掲げられています。この一文は長明の発明によるものではなく、もともとの出典は『涅槃経』です。『日本霊異記』中巻の序には「心の師となして、心を師とすることなかれ」とあります。「自分の心を導く師となるように心がけ、自分の欲心のままに行動することはしてはならなない」(新潮日本古典集成版一〇六頁頭注一〇)の意。源信の『往生要集』大文第五には、「もし惑、心を覆ひて、通・別の対治を修せんと欲せしめずは、すべからくその意を知りて、常に心の師となるべし。心を師とせざれ」(岩波日本思想大系『源信』一八四頁)とあります。その他の仏教書にも同様の表現が見られます。長明はそれらを念頭に置いて『発心集』の冒頭にこの一文を記したのでしょう。
私はと言えば、心の師となるどころか、心を師と仰いでしまうことがしばしばあります。『涅槃経』の現代日本語訳である中村元訳『ブッダ最後の旅』(岩波文庫、一九八〇年)には、尊師(ブッダ)が弟子アーナンダに語りかけているこんな一節があります。
この世で自らを島とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ。では、修行僧が自らを島とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとしないでいるということは、どうして起こるのであるか?
アーナンダよ。ここの修行僧は身体について身体を観じ、熱心に、よく気をつけて、念じていて、世間における貪欲と憂いとを除くべきである。
感受について感受を観察し、熱心に、よく気をつけて、念じていて、世間における貪欲と憂いとを除くべきである。
心について心を観察し、熱心に、よく気をつけて、念じていて、世間における貪欲と憂いとを除くべきである。
諸々の事象について諸々の事象を観察し、熱心に、よく気をつけて、念じていて、世間における貪欲と憂いとを除くべきである。
アーナンダよ。このようにして、修行僧は自らを島とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとしないでいるのである。
アーナンダよ。今でも、またわたしの死後にでも、誰でも自らを島とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとし、他のものをよりどころとしないでいる人々がいるならば、かれらはわが修行僧として最高の境地にあるであろう、―誰でも学ぼうを望む人々は―。
修行僧ではない私は「法を島とし、法をよりどころと」することはできませんが、せめて感受・心・諸々の事象の観察には熱心でありたいと思います。