内的自己対話―川の畔のささめごと

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生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第五章(五十三)

3. 5 二つの次元に引き裂かれた身体(2)

 身体の現われが世界の現われに準ずる現われとして理解されるのではなく、まさに生命の現われの一つの発現として自覚されるとき、私たちの身体についての考え方に転換が起こる。この転換は、私たちの自己身体が世界を満たしている他の諸物体とはまったく異なっており、もはや見える身体ではなく、一つの「肉」、「見えない肉」であることの自覚によって引き起こされる(voir Incarnation, op. cit., p. 8-9, 369)。
 この〈肉〉としての身体の現象学的基底は生命の内に見出され、〈肉〉としての身体は生命からその現象学的諸属性のすべてを受け取っている。このように〈肉〉としての身体が生命にその一切を負っているという関係は、生命の自己顕現には〈自己〉が必然的に内含されているという本質的な理由に拠る。身体は生命とともに〈肉〉として生まれる。あらゆる点において生命に委ねられている〈肉〉は、その生命から己の現実そのもの、「自己印象」という「純粋な現象学的質料」を贈与されており、この質料が「情動的な自己触発の質料」に他ならない(ibid., p. 241-243)。
 〈肉〉がその可能性の一切を生命の自己触発から受け取っている現象学的質料であるからこそ、その〈肉〉は、私たちの身体に刻印される諸々の印象に、生ける現実性を与えることができる。あらゆる〈肉〉は、絶対的生命の「超-受容可能性」(« Archi-passibilité »)、つまり、「情感的な現象学的現実化様態に基いて己を己の内で己自身へともたらす本源的な能力」(« la capacité originaire de s’apporter soi-même en soi sur le mode d’une effectuation phénoménologique pathétique », ibid., p. 243)を前提としている。この超-受容可能性の懐に抱かれているからこそ、私たちの身体は受容するものと成ることができる。私たち有限な生命は、その受容可能性を、無限の生命の超-受容可能性から生誕時に無償で贈与されているのである。