内的自己対話―川の畔のささめごと

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生成する生命の哲学 ― フランス現象学の鏡に映された西田哲学 第五章(四十五)

3. 3 自己開示的生命 ― 他者への回路の欠落(2)

 生命の顕現へと至る途はどのようなものなのか。それは、端的に、生命そのものである。生命は、それ自らの内で己自身に己を顕現させる。そこにあるのは、現実への段階的な接近ではない。そうではなく、顕現そのものにおける、現われるものと純粋な〈現われること〉との絶対的な同一性の自己現出である。生命へと至る途は、生命のうちにしかなく、生命によってしか開かれることはなく、生命からしか生命へと至る途はない(voir Incarnation, op. cit., p. 123)。ミッシェル・アンリの生命の現象学は、したがって、現象を段階的に明るみにもたらす解釈学的な作業からなるのではななく、不可視の現前への直接的な参入をその根幹に据えていると言うことができる。
 このように生命は見えないもののうちで感受されるほかないとすれば、アンリ自身自らそう問うているように、思惟においていかにして生命に至り得るのか、生命の哲学はそれでもなお可能なのであろうか、と私たちは問わざるを得ない(voir ibid., p. 122)。アンリのこれらの問いに対する答えは、本質的に、いずれも自己への到来として定義される生命と主体性との同一性をその根拠としている。この初源に措定された同一性が、生命と生命の外との関係という問題を回避することをアンリに可能にしているように思われる。この同一性は、次のような仕方でアンリによって徹底化される。

いかにして私たちは生命へと至るのか。それは、私たち自身へと至る途によって、つまり、その名に相応しいかぎりの〈自己〉とその都度の特異な〈自己〉とがそこにおいて同一化されるこの自己関係においてである。しかし、この自己関係 ― 私達自身へと至る途 ― は、私たちに先立つのであり、そこから私たちは結果として生まれているのである。なぜなら、私たちが私たち自身へと到来し、私たちがそれであるところの〈自己〉になるのは、絶対的生命が己へと到来する永遠の過程においてのみだらかである。この過程においてのみ、それによって、生けるものたちは〈生命〉へと到来する。

Comment avons-nous accès à la vie ? En ayant accès à nous-même — dans ce rapport à soi en lequel s’édifie tout Soi concevable et chaque fois un Soi singulier. Mais ce rapport à soi — cet accès à nous-mêmes — nous précède, il est ce dont nous résultons : c’est le procès de notre génération, puisque nous ne sommes venus en nous-mêmes, devenant le Soi que nous sommes, que dans le procès éternel en lequel la Vie absolue vient en soi. Dans ce procès-là seulement et par lui, des vivants viennent à la Vie (ibid., p. 123. この生命へと至る途という問題については、C’est moi la vérité, Seuil, 1998, p. 132-133 に、これよりさらに入念な議論が展開されている)。

 私たちは、ここで、アンリとは異なった立場に立つ哲学者二人を召喚して、アンリと対質させよう。フッサールの高弟・私設秘書・共同研究者であり、本人自身独自の哲学を展開した現象学者でもあったオイゲン・フィンクは、アンリとはまったく対立する仕方で、次のように生命へと至る途を規定する。「生命は己自身を外化することによって、見るものの眼差しのうちで、己自身へと到来する」(Eugen FINK, Sixième Méditation cartésienne. L’idée d’une théorie transcendantale de la méthode, trad. fr. Natalie DEPRAZ, Grenoble, Éd. Jérôme Millon, 1994, p. 76)。いったいなぜ、アンリは、このフィンクのような立場を徹底的に拒否するするのだろうか。ここで召喚されるもう一人の哲学者は、言うまでもなく、西田である。西田は、生命に他ならない真実在の本性の一つを絶対的自己否定に見る。この西田の立場に対して、アンリはどのように応答するのであろうか。