修士2年の仏文和訳上級の最後の演習を今日オンラインで行った。これで年内の授業はすべて終了。年内に残っている職業的義務は明日と明後日の試験監督だけである。明日は、試験監督といっても、明後日の試験が仕事上の都合で受けられないたった一人の学生のための、本人からの要望に応えての特別措置である。試験時間は一時間。
« Traductologie – niveau 3 » という科目名の今日の演習、同僚と二人で前半後半に分けて3回ずつ担当するという今年からの新しい試みであった。事前に二人でテーマについて相談し、政治・社会問題・テクノロジー・気候変動という4つのテーマを選定した。そして、同僚がそれらのテーマに関するフランス語の記事をテーマごとに複数選び、私は日本語の記事を同じように選んだ。難易度・記事の長さ等を考慮して、最終的に選ばれたテーマは、石破首相誕生の政治的経緯、ヤングケアラーの現状、AI翻訳であった。一回の演習で一つの文章を扱うという原則で選択・編集した記事を学生たちに事前に送り、翻訳を準備させた。
今日の授業で検討したのは、今年10月24日付けのル・モンド紙に掲載されたAI翻訳に関する投稿記事で、筆者は大学でも翻訳教育に携わっているドイツ文学の翻訳家である。構文的にはさほど難しくない文章だが、日本語には馴染みにくい表現が散見され、テーマに関して日本で現によく使用されている語彙にいくらか通じていないと適語の選択がちょっと難しいという程度の難易度であった。
事前に提出された7つの翻訳を私が授業の前にすべて添削しておく。授業では、それらの翻訳一つ一つについて、一段落ごとに、細部にわたって問題点を説明していく。それはそれで学生たちの勉強になる作業ではある。
しかし、記事の内容そのものはあまり面白くなかった。というか、古色蒼然とした「人力」翻訳擁護論で、正直、まだこんなこと言っているのかと少し呆れてしまった。要するに、文学作品の翻訳の精神的効用論で、こんなことで現状に一石を投じたことになるとでも思っているのかというほどに黴臭い御託である。時代錯誤的な喩えで恐縮だが、敵からの空爆が繰り返される危機的な状況のなかで、竹槍訓練で心身を鍛えることの効用を説いているようなものである。
記事のなかでも言及されているように、大学での進路に迷っている若者とその家族が翻訳業の未来に対して不安を抱いているのが現状である。そのような先の見えにくい状況にあって、「みなさん、将来どんな職業につくにしても、文学作品を機械に頼らず自力で訳す訓練には、言語能力を磨き、精神を鍛え、思考力を高めるという効用がありますよ」と言われて、大学で文学作品の翻訳に打ち込む気になる高校生やその選択に賛同する親御さんたちがどれだけいるというのか。
文学作品の翻訳作業の効用として上記のような諸点を挙げること自体を否定するつもりはない。市場原理が席巻する現状をひたすら追認し、それに遅れないように「適応」することを金科玉条とせよとも思わない。AIに白旗を上げて降参せよと言いたいのでもない。文学作品の翻訳が完全に自動翻訳のみになってしまうこともおそらくないであろう。
しかし、翻訳市場全体を見渡せば、生成AIの登場とその急速な普及と驚くべき質的向上が翻訳の社会的機能に空前の変化をもたらしていることは誰にも否定できないだろう。
文学作品の翻訳が占めているのはその一部でしかなく、そこでは通用する議論を他の分野に無条件に拡張することはできない。
翻訳に求められているものは、その利用者および市場のニーズによって可変的である。メディアの情報、広告、取扱説明書、観光ガイド、映画字幕、各種契約書、行政文書、法律文書、外交文書、政治的声明、科学雑誌、学術論文等、数え上げればきりがないが、翻訳対象となる文章の質と目的によって要求水準・内容も大きく異なってくる。
AIが生成した翻訳は、蓋然性の高さに基礎を置くアルゴリズムの結果としての「疑似言語」であって、人間による「血の通った」創造的言語活動の成果ではない、という、上記の記事の筆者である翻訳家の悲痛な叫びは、世界を覆い尽くす情報の大洪水による喧騒によってほとんどかき消されてしまっているとしか私には思えない。