『愉しい学問』断章290の原タイトルは、Eins ist not となっていて、新約聖書ルカによる福音書第十章第四二節のイエスの言葉、「しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」から取られています。ニーチェは他の著作でもしばしばこの表現を引用したり、パロディ化しています。
この聖書の一節では、マルタとマリアが対比されています。家にやってきたイエスのもてなしの準備に忙しい姉マルタが、自分を手伝おうともせずにイエスの傍らでその言葉に聴き入っている妹マリアについての不平をイエスに訴えたとき、それを受けてイエスがマルタにかけた言葉のなかに上掲の引用文が出てきます。
通常の釈義では、マルタが vita activa を、マリア vita contemplativa を象徴しており、後者こそがキリスト教徒にとって「必要なただ一つのこと」だとされます。もっとニュアンスに富んだ様々な解釈がありますが、その中でも際立っているのがマイスター・エックハルトの説教86でしょう。通常の解釈図式を転倒させ、マリアにこそ成熟した信仰のあり方を見、マリアはまだその途上にあるとするエックハルトのこの説教についてはこちらの記事を参照してください。
「必要なことはただ一つだけである」という一文は、ニーチェの生まれ故郷であるレッケンでルター派の牧師であったニーチェの父が説教の際に使っていた椅子に刻まれていたといいます。この一文は、それを聞いただけで聖書のどの箇所のことなのかキリスト教徒ならばすぐにわかるほどによく知られています。ニーチェも当然そのことを前提としてこの表現を使っています。断章290では、あからさまではありませんが、やはりキリスト教批判がその背景にあると見て間違いないでしょう。
この断章の前半を読むと、「みずから」様式を選び、その様式の強制するところにしたがって己を作品として彫琢し続けることができる力強い本性の持ち主をニーチェは称え、様式への意志的な従属を嫌い、自然が「おのずから」成ることにまかせる他律的な弱い性格の持ち主とそれを対比し、後者を否定的に見ているように読めます。
ところが、「というのも、一事が必要だからである」以降を読むと、いずれにせよ、「人間が自己満足に到達する」ことが唯一大事なことだと言っています。弱い者たちにとっても自己満足することが大事だということでしょうか。強い者も弱い者も、活動的な者も瞑想的な者も、とにかく己に満足していることが唯一大事なことだということでしょうか。
ニーチェの言葉には、しかし、毒が含まれています。
仮に弱い性格の持ち主でも、本人が自己満足していれば、なんとか見るに耐える代物だが、満足していないと、いつも恨みがましく、復讐しようと身構え、ルサンチマンに満ちたその姿は醜い。それを見なくてはならない私たち強き者にはいい迷惑だ。そんな光景の犠牲者に私たちがならなくてすむように、弱い性格の持ち主たちよ、活動的でも瞑想的でもいいから、どうか君たちも自己満足していておくれ、そうすれば、力強い本性の持ち主である私たちも、醜いものを見て気分を害したり、憂鬱になったりせずにすむから。
弱い性格の持ち主たち(その中には当然キリスト教徒たちが含まれています。あっ、もちろん私も)にこうぐさりとアイロニーの短剣を突き刺してこの断章は終わっています。