内的自己対話―川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。

外出禁止令は私たちの精神活動を妨げるものではないことを実証してくれている学生たちの小論文

 月曜日の「日本の文明と文化」という授業では、課題として日本語のレポートを毎週提出することを義務づけている。それは大学閉鎖になる前からずっと続けていたことであった。400~600字を原則としているが、それを超えても別に構わない。
 大学が閉鎖され、教室での授業が行えなくなってから、これまでに三回課題を出した。最初が「日記と自伝の違い」、次が「「わかる」と「理解する」の違い」、そして昨日が締切りの課題は「異文化理解の二つのタイプ「同化」と「封入」を説明した上で、第三のタイプについて自分の考えを述べよ」であった。しかも字数は600~800字に増やした。毎週難易度が上がっているわけである(あと三回残っている。もちろん手綱を緩めるつもりはない)。
 他の科目の宿題もあれこれあるにもかかわらず、皆よく課題に取り組み、期日までに提出してくれている。今回の課題に対しては、「とても難しい。でもやってみます」といった書き出しで始まるレポートが少なくなかった。無理もないことだ。
 ところが、その内容はといえば、回を追うごとに全体的にレベルアップしている。今回がもっとも充実していた。つまり、皆本気を出して考えているのである。2400字という最長レポートを書いてくれた学生はそれをなんと課題提示の二日後に送ってきた。長さからいうと、2200字、1600字がそれに続く。いずれも内容的にもとても優れた文章で、小論文の名に恥じない。
 今回、前回にもまして紹介に値する力作が多かったのは、難しくはあったが、彼らにとっても強い関心があるテーマだったからであろう。今日の午前中にすべてのレポートの添削を終え、それぞれの学生に送信した。その直後に、明日の録音授業のためのパワーポイント作りを始めた。その前半は今回の宿題の講評から始まる。
 彼らの努力を讃えるために、ここにそれらを紹介したいのだが、全部紹介するとなると途轍もなく長い記事になってしまうので、一言私見を述べるにとどめる。
 添削していてとても印象に残ったことの一つは、彼らのうちの多くが「同化」を「する側」からではなく、「される側」から見ていたことであった。これは授業の内容理解という点からすると、褒められたことではない。授業で私が説明し、その際に引用した Rémi Brague のテキストで問題にされていたのは「する側」の論理と心理だったからである。
 しかし、まさにこの授業内容の誤解あるいは無視が示唆的なのだ。この誤解ないし無視は、一つには、私が Brague のテキストの中の « digestion » を「同化」と訳したことに起因する。この訳が必ずしも適切ではないことは私もわかっていた。しかし、Brague のテキストに依拠するかぎり、誤解の余地はない。ところが、和仏辞典で「同化」を引けば 、 « assimilation / intégration » という訳語が並んでいる。これらの語は社会政策的な文脈では肯定的な意味では使われない。同化政策とは、移民に自分の出身文化の放棄を強いることを意味しうるからだ。
 多くの学生がそこに強く反応し、同化をむしろ批判的に或いは必要悪として見ているのである。これはフランスのような移民問題に敏感な社会においては当然の反応と言える。自国の殻に閉じこもったままで呑気に「異文化理解」とか授業でほざいているだけの日出国の大学教員どもとはわけが違うのである。
 それだけではない。彼らはそれと知らずに Brague のテキストの論議の一面性を突いてもいるのである。
 外出禁止令が発効してから今日で二十日になる。まだまだ予断を許さない状況が続く。しかし、それは私たちの精神活動を妨げるものではない。そのことを学生たちのレポートが実証してくれている。そういう彼らを私は誇りに思う。
 最後に、今週の最優秀小論文からその結論の一文を引いておく。

「自分を自己の文化から解放して、世界を考え直すのは人間として我々のもっとも大事な義務であると思う。」