内的自己対話―川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。

声に出して読むことで発生するエネルギーの伝導を願いつつ

 昨日木曜日の近現代日本文学の録音講義は、新興芸術派と昭和十年代の文学がテーマであった。
 本題に入る前に、話の枕として、先週は時間切れで言及できなかった金谷武洋『日本語と西欧語 主語の由来を探る』(講談社学術文庫 2019年 初版『英語にも主語はなかった』講談社選書メチエ 2004年)の中の川端康成『雪国』冒頭の一文に言及している一節をまるごと画面に映し出しながら、その内容を説明した。
 その一節は、「日本文学の英訳にみる視点の違い」と題された節の中にある。かの有名な冒頭の一文「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。」とそのサイデンステッカーによる英訳 « The train came out of the long tunnel info the snow country. » とが与える情景の違いについて説明している箇所である。著者の言うことに全面的には賛成できないし、どうもこの人の文章は肌に合わないが、学生たちには考えるヒントにはなろうかと思い紹介した。ちなみに仏訳は « Un long tunnel entre les deux régions, et voici qu’on était dans le pays de neige. » となっている。
 枕がいささか長くなってしまった。それは本日のお題があまり気乗りのしないテーマだったことにもよる。ずらずら作家の名前をあげて僅かばかりの説明を加えることにどれほどの意味があるかと思ってしまう。一応型通りに教科書の「昭和十年代の文学」という節の終わりまで読んだ。そこに並んだ小項目は、「転向文学」「既成作家の活躍」「『文学界』と『日本浪曼派』」「戦時下の文学」「昭和十年代の作家」である。そこに挙げられている作家・作品の中には詳しく言及するに値するものもあることはもちろんだが、そんな時間はない。通り一遍の説明で前半一時間は終了。
 後半は実はちょっと楽しい(って私が勝手にそう感じているだけかもしれないが)。授業の前半で取りあげた作家たちの作品の中からいくつか選び、その抜粋を朗読するのである。朗読の前後に作品について簡単な解説をほどこす。ここはもちろんフランス語だ。授業の準備をしているとき、この作品と朗読箇所の選択にえらく時間がかかる。迷うからである。
 昨日の授業で選んだ作家は、井伏鱒二梶井基次郎堀辰雄中島敦の四人。このうち井伏、堀、中島の三者の作品からの抜粋は教科書にも載っている。それと同一箇所あるいはその前後も含めたもっと長い一節、あるいは別の箇所を朗読箇所として選んだ。梶井基次郎は教科書では名のみの言及だったが、これは私の好みで選んだ。選んだ作品は『山椒魚』『檸檬』『風立ちぬ』『山月記』『李陵』。中島敦だけ二作品なのは私の好みの反映である。いずれも冒頭を選んだ。しかし、数行あるいは一段落ではなく、もっと長い部分を読むことにした。
 仏訳が手元にある場合は、まず原文のみをスクリーンに映し、音読する。次に対訳形式で表示し、再び原文のみに戻してもう一度音読する。仏訳がない或いは手元にはない場合は、およその内容を説明した上で、それぞれの散文の音の響きに学生たちの注意を促す。
 朗読にミスがあっては台無しだ。録音前に何度も練習する。それで準備になおのこと時間がかかる。でもそれが嫌ではない。声に出して読んでいると、これらの優れた散文の言葉に充填されたエネルギーがこちらにも伝導してくる。そのエネルギーが録音を通じて学生たちにも伝わってほしいと願いながら読んでいる。