昨日今日のこの週末、文字通り家に籠りきり、食事も夕食以外はほとんど取らず、朝から晩まで机の前にほぼ座りっぱなしで、今週金曜日のパリ・ナンテール大学での発表原稿を一気に仕上げた。
今、ワインと共に夕食を取りながら、この記事を書いている。例によって、安ワインだが、一仕事終えた後の味は格別だ。
原稿は、例によって、詰め込みすぎ、持ち時間40分に対して長すぎる。ただ読み上げただけでも一時間はかかりそう。実際の時間配分としては、発表30分+質疑応答10分というところだろう。明日からの残り四日間は、授業と大学の雑務の合間を縫って、原稿の推敲とパワポ作りに取り組む。
授業の準備でも同じなのだが、話す材料はいつもかなり多めに仕込んでおく。そうすれば、気持ちの上で余裕ができ、概して話にも淀みがなく、聴いている方にもそれだけ聴きやすいはずだ(えっ、違うの?)。
原稿を書いているうちに内容は頭に入ってしまうので、当日、原稿をそのまま読み上げるということはまずしない。
普段の授業では、A4のルーズリーフ一枚、あるいは、昔懐かしいB6の情報カード(学生時代にものすごい量を購入したのだが、その直後にパソコン時代が到来し、お蔵入りしていたものを日本から送ってもらった)に記したメモだけで話す。
要点が記された紙一枚が目の前に置いてあれば、あとは話したい内容そのものが私の身体という発声器官を通じて自己生成していく。自己生成する思考が発声器官としての私の身体を使っているに過ぎない、という感覚である。
しかし、それは必ずしも、最初から最後まで立て板に水、ということではない。私の脳が記憶媒体となり、私の身体が再生装置となり、そのスイッチを入れれば、あとは最後まで予め入力されていた内容が自動的に再生されるだけ、ということではない。
内容そのものの難所では、言葉も自ずと停滞する。より適切な言葉を探して、言い直しのコマンドが実行される。適切な言葉がすぐに見つからず、焦燥と緊迫を孕んだ沈黙が流れることもある。しかし、それらすべてが表現なのだ。