この半世紀の日本古代史における学問的成果は、古代日本の文化がいかに東アジアの世界と連動していたかをつぎつぎと実証してきた。そのことは学校教科書にも反映されている。古代史の講義を担当するようになって、私自身、素人ながら、古代日本史を古代東アジア世界の中に位置づけ、国外の動向と国内の事象との連動性をしばしば授業中に強調している。
その観点から見ると、その国にとっては境界領域あるいは辺境こそが異文化に接する最前線になることもよく見えてくる。例えば、漢字文化との直接的なふれあいが、朝鮮半島に近い対馬や北九州などではじまったことは、容易に推測することができる。
対馬で発見された如来座像の銘文の中に北魏の年号の興安二年(453)と刻銘されていた。もちろんそれだけでは、この如来坐像がいつ対馬に伝えられたかを確定する証拠にはならない。しかし、仏教文化の伝来が中央政権が形成される大和地方よりも対馬や北九州などの方が早かったことは、『日本霊異記』や『新撰姓氏録』の伝承などからうかがわれると上田氏は言う(同書第Ⅱ部「渡来文化の諸相」第一章「文字の使用」「4 文字のひろまり」「漢字の理解」冒頭参照。私が読んでいるのは電子書籍で、選択する文字の大きさで頁数が変わってしまうので、頁数は示しても意味がない)。
私は、数年前から、特に対馬に注目している。それは古代から近世まで、大陸、とりわけ朝鮮半島との交流において対馬がきわめて重要な地政学的役割を果たしているからである。
上田氏は本書のあとがきで、対馬藩の儒学者雨森芳洲(1668~1755)の『交隣提醒』から次の一節を引いている。
誠信の交わりと申す事、人々申す事に候へども、多くは字義を分明に仕えざる事これあり候。誠信と申し候は実意と申す事にて、互いに欺ず争ず、真実を以て交り候を誠信とは申し候。
私たちが生きている現代世界は、芳州が定義した誠信とはまさに真逆の方向に向いつつある、と言わざるを得ないであろうか。