内的自己対話―川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。

知は愛であり、愛は知である。愛のない知は不毛であり、知のない愛は盲目である

 今日の修士一・二年の合同ゼミは、正規登録者十四名は全員出席。パリのイナルコで日本学部課程を修了し、この九月からストラスブール大学芸術学部修士一年に登録し、自由聴講生として出席したいという女子学生一人を加えて、十五名の出席者。正規登録者だけでも昨年より人数は多いのだが、残念ながら、昨日の記事でもひとしきり嘆いたように、正規登録の一年生の大半のレベルはきわめて低い。
 そのことについて、正直な気持ちをちょっとだけ吐露すことを許されたい。
 いくら学部を正規に(しかし、パッとしない成績で)修了して資格があるからといって、どうして修士に来ちゃうのよ。ちゃんと将来のこと考えてのことなの(おまえが言うかって?)。あなたたち相手に、はっきり言って、修士レベルのまともな演習はできないよ、どうすりゃいいのよ。もう途方に暮れそう。
 今日の演習では、そんなこと言ったってしょうがないし、そもそも彼らのせいじゃないし、と気を取り直して、演習の目的と評価基準について詳しくフランス語で説明した後、少しずつ日本語の分量を増やしながら、その他の必要事項について説明していった。
 彼らのレベルを無視してこちらの要求を一方的に押し付けるのではなく、彼らのレベルに合わせてと彼らとどう付き合っていくか、それが今年の私の課題だ(誰か学科長の仕事、代わってくれないかなぁ)。
 今日のところは、彼らに音読の大切さを理解させるのに時間を割いた。ただ読めればいいのではない。ただ理解できればいいのではない。ただ訳せればいいのではない。与えられたテキストをそのテキストの性格に相応しく美しく音読できることがどれほど大切なことか、そのために同じテキストを繰り返し声に出して読むという日々の地道な訓練がどれほど人の感性を細やかにするかを両言語で諄々と解いた。
 でも、どこまで伝わったか、正直、心もとない。だけれど、一昨日の講演、昨日の研修、今日の演習を通じて、私としては、根柢では同じテーゼをその都度違った仕方で繰り返し主張しているに過ぎないのだ。そのテーゼは次のように定式化できる。
 知は愛であり、愛は知である。愛のない知は不毛であり、知のない愛は盲目である。