今月18日から読み始めた段落も、その本文を読むのは今日が最後になります。ちょうど一週間かかったことになります(一週間で一頁弱とは、なんとも情けない...)。
今日読む箇所は少し長いのですが、まず全文引用します。
La distinction de l’a priori et de l’a posteriori, retentissement du schème hylémorphique dans la théorie de la connaissance, voile de sa zone obscure centrale la véritable opération d’individuation qui est le centre de la connaissance. La notion même de série qualitative ou intensive mérite d’être pensée selon la théorie des phases de l’être : elle n’est pas relationnelle et soutenue par une préexistence des termes extrêmes, mais elle se développe à partir d’un état moyen primitif qui localise le vivant et l’insère dans le gradient qui donne un sens à l’unité tropistique : la série est une vision abstraite du sens selon lequel s’oriente l’unité tropique. Il faut partir de l’individuation, de l’être saisi en son centre selon la spatialité et le devenir, non d’un individu substantialité devant un monde étranger à lui.
最初の文が言っていることは、シモンドンが一貫して主張していることです。質料形相論的図式の近代における反響であるア・プリオリとア・ポステリオリとの区別という構図は、認識の中心である真の個体化作用を覆い隠してしまうが、そうなってしまうのはその区別の中心域が闇に包まれたままだからからだ、ということです。つまり、この初期設定として立てられた区別は、なぜどこにその区別が発生してくるのかという問いを完全に封印してしまうと批判しているのです。
そのような截然と区別される二項を前提として立てて存在を考え始めるのをやめようではないか、ということです。私もそれには全面的に賛成ですが、じゃあ、どう考えろとシモンドンは言うのでしょう。
そのような考え方に対して、シモンドンは、質的あるいは収束性をもった「繋がり(連鎖)」という概念を導入し、それを存在の段階理論にしたがって考えることを提案します。
この「繋がり(連鎖)」は、それに先立って存在する極項間の関係ではなく、それらによって支えられているものでもない。「繋がり(連鎖)」は、或る原初的な中間状態から発展するもので、この中間状態が生命体の位置を決定し、向性をもった一全体に方向を与えている傾度の中に生命体を挿し入れている。
つまり、「繋がり(連鎖)」とは、向性をもった一全体の運動過程の方向をそれとして抽出している概念だということです。
シモンドンがその存在論の出発点に措定したいのは、もう繰り返すまでもないと思いますが、一言で言えば、個体化過程です。それは、己に対して無縁な世界を前にしている実体化された個体を出発点としないということです。空間性と生成にしたがってその中心において把握された存在から出発しようということです。