内的自己対話―川の畔のささめごと

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心理的個体と集団との相補性あるいは「通・超個体性」について ― ジルベール・シモンドンを読む(25)

 自分自身が抱えている問題を解決するために行為を通じて世界の一要素となって働くとき、個体には「心理」(« psychisme »)という次元が発生する。これが昨日読んだ箇所の要点でした。
 しかし、この心理的存在と成った個体は、己自身の内だけで自分固有の問題群を解決することはできない、とシモンドンは言います。言い換えると、心理的存在としての個体は、自分自身だけでは主体となることができないのです。個体が抱える問題解決の可能性の条件として導入されるのが「集団」(« collectif »)という次元です。しかし、あらかじめ一言断っておけば、この集団とは、個体化された複数の個体の単なる寄せ集めではありません。
 あらゆる個体化の基底として、「前個体化的現実」(« réalité préindividuelle »)ということがこれまで繰り返し言及されてきました。ここでもこの現実が集団を可能にしていると言うことができます。この現実は、心理的存在として個体化された個体につねに分有されています。心理的存在としての個体に分有された前個体化的現実は、個体化された生命体の諸々の限界を超えて、生命体を世界と主体とのシステムの中に統合します。この現実が、集団という個体の個体化の条件という形で「参加」(« participation »)を可能にします。
 集団という形で生成された個体化は、心理的存在と成った個々の個体をグループの個体つまりグループに結び付けられた個体にします。それを可能にしているのが、それぞの個体が分有している前個体化的現実です。この現実は、他の個体にも分有されているからこそ、「集団的統一体として個体化される」(« s’individue en unité collective »)のです。
 心理的個体化と集団的個体化という二つの異なった次元の個体化は、互いに他方を前提としています。心理的個体の存在しないところに集団的個体はありえないし、集団的個体のないところに心理的個体もありえません。
 この二つの個体化が « transindividuel » という、ここで新たに導入される範疇を定義することになります。この範疇が内的個体化(心理)と外的個体化(集団)とによって形成される全体のシステムとしての統一性を説明してくれます。なぜなら、この範疇は、個々の個体によって分有され、それらを活性化している前個体化的現実と、それら個体が内属する、その意味でそれら個体に対して高次の個体として生成された集団を活性化している前個体化的現実との共通性をそれとして提示するために導入されているからです。
 この共通性を « trans-» という接頭辞が示しているのですが、この接頭辞には「~を超えて」という意味と「~を通じて」という意味とがあり、« transindividuel » にはその両方の意味が込められています。つまり、「通個体的」と「超個体的」という意味です。いずれの個体にも分有されているという意味では前者に、そのいずれの個体の属性にも還元されえないという意味では後者に、それぞれ該当します。そこで、この両義性を反映させるために、こなれていない日本語であることは承知のうえで、以後 « transindividuel » を「通・超個体的」と訳すことにします。
 ところで、シモンドンと直接関係はないのですが、この « trans- » という接頭辞を使った哲学概念の一つとして私がかねてより注目しているのが、アンリ・マルディネの « transpassibilité » です。この概念については、博士論文の一つの注の中で少し言及してあります(2014年4月17日の記事を参照されたし)。