2. 5 〈肉〉のロゴスと語る身体(1)
私たちは、今や、〈肉〉の存在論における自己身体の存在性格の核心に到達している。それは、単に、〈肉〉の存在論の要を成す結び目を見極めうる地点に立っているということではなく、それと同時に、「問いかけとしての哲学」(« la philosophie comme interrogation », VI, p. 314)の出発点に立っているということでもある。
奥行は、そこにおいて存在論的探究が展開される、〈存在〉の本質的な次元である。この奥行を原理的に隠されたものの次元として有つ知覚の領野こそ、すべての存在論的問題群が提起される場所であり、「〈存在〉に向かって最も充溢した仕方で開かれている」(« ouvrent le plus énergiquement sur l’Être », ibid., p. 140)言葉の誕生に立ち会うために立ち戻るべき場所である。この言葉が、「万有の生命をより強い結びつきのうちに伝え、私たちの諸々の習慣的な自明性を断ち切るところまでそれらを振動させる」(« rendent plus étroitement la vie du tout et font vibrer jusqu’à les disjoindre nos évidences habituelles », ibid.)。
『知覚の現象学』の成果は、見ること・触れることが反省的思考に先立つ作用として作動する場所である知覚の領野に精細な記述を与え、その中に知覚主体としての自己身体を明確に位置づけたことにあった。それに対して、『見えるものと見えないもの』の主眼は、見ること・触れることを、存在論的探究がそこで遂行されるべき本来的な地平を開く作用として捉え、知覚主体としての自己身体の経験の有つ存在論的含意を引き出すことに置かれている。
メルロ=ポンティは、私たちの世界への眼差しを、自己身体にとって本来的な眼差しである「物らに問いかける眼差し」(« regard qui interroge les choses », ibid.)へと立ち返らせる。この眼差しは、知覚世界に住まい、あらゆる眼差しの起源と基礎となり、世界が言いたいことを自ずから世界に言わせるべく、世界へと問いかける。
今ここでの事実的状況を引き受け、そこに身を据えながら、哲学者は、知覚世界が言わんとするところに耳を傾け、既存の意味のシステムによって覆い隠された世界の基層において私たちが生きているものを今一度生き直そうとする。黙せる世界へ繰り返し問いかけ、言葉なしでは感覚的なものの内に固着したままの問いかけを私たちのうちに呼び起こす。そこで索められているのは、知覚世界への回帰でも、その世界の再生でも、その世界で起こる諸現象についての単なる事後的な記述でもなく、世界が沈黙のうちに言わんとしていることに表現を与えることである。この表現者の役割を担うのが私たちの自己身体、世界の基層を成す知覚世界の「生地」から生まれた私たちの語る主体としての身体なのである。
世界は、己が絶えず更新し続けるこの表現を通じて、歴史的生命の世界となる。この歴史的生命の世界においてこそ、私たちは、真に生れ、働き、そして死んでいくのである。