昨日の記事の末尾で、「あるテキストを手がかりに」と書いたとき念頭にあったのは、仏語の発表原稿でも引用するつもりでいる上田閑照の文章だった。複数あるので、まずそれらのタイトルと出典を列記しておく。
「『世界』の見えない二重性 ― 『虚空/世界』と霊性」
(『哲学コレクションⅠ 宗教』、岩波現代文庫、p. 63-76)
「『無と空』をめぐって」(同書、p. 112-140)
「ことば ― その『虚』の力」(『哲学コレクションⅢ 言葉』、p. 20-43)
「根源語 ― あるいは実存と虚存と」(同書、p. 44-61)
「言葉の遊戯 ― 『虚空/世界』遊戯としての言葉」(同書、p. 108-190)
すべて既読のテキストだが、今回の発表のために、昨日から再読し始めた。
上田閑照のマイスター・エックハルト研究については、僭越を恐れず、蛮勇を奮って、批判的な言辞をある講演で述べたこともあるが、ヨーロッパでも必読文献の一つに数えられるそのドイツ語でのエックハルト研究、日本語での禅仏教や西田哲学についての諸著からは、これまでに多くを学んできた。それだけに、今回もただ我田引水的に氏を引用するだけでなく、私なりにその思想と対決したいと思っている。
今日は、上記の氏の著作の再読中に浮かんだ考えをここに随時記していくつもりだったが、仕事上処理しなくてはならないメールが断続的に入ってきて、何か書き留めるほど集中して考えることができなかった。
そこで、昨日の続きとして、「空」という漢字の用法について、自分の語感に基づいた感想を記すに留める。
ある一つの語 ― ここでは一つの漢字 ― の意味についての理解を深めようとするとき、意味の上で近接する他の語と比較して、それらの間にある差異を明確にすることで、問題となる語群全体の動的な関係性を捉えていくという方法をここでは採る。しかし、それはそれらの語のそれぞれについて、一般に妥当する解釈を与えることが目的ではなく、語群全体の動的な相互関係性をできるだけ明確に自分の言葉で提示することによって、自らの思索の現場を示すことがその目的であることを予め断っておきたい。
「欠席」と言えば、誰がその席にいないのか、わかっている。その意味で、そのそこにいない誰かは欠席という仕方でそこに〈いる〉。例えば、ある会議に出席している人たちにとって、その会議に欠席している人は、まさに欠席という形でそこに〈いる〉のであり、出席者たちはそのような仕方で欠席者とともにある。「欠」は「そこにいるべき人・あるべきものが欠けている」ということだ。しかも、それは一時的な不在に限定される。これはこれで一つの存在様態である。
「空席」と言えば、それは空いている席であり、その席は誰かによって占められることを待っている。その誰かはわからない。もちろん、誰かのために「席を空けておく」ということもあるが これは別の事柄。しかし、その場合でも、その席が誰かによって占められることを待っているという点では同じである。この意味で、「空」は、「ある場所がそこに受け入れる人・ものを待っていること」。もしそう言ってよければ、「空ろ」とは、心が何かを待っているのに、その待っているものが来ない、あるいはもう失われてしまった状態。「空しい」とは、待っていた、あるいは期待していたもの・ことが到来せず、現実に得られた、あるいは得られるもの・ことはそれとは違ったときに経験される感情。こうそれぞれ定義できるだろうか。
では、「空」とは何か?「そら」であり、「くう」である。前者は大地に立って見あげればいつもそこにあり、後者はその「空」が私たちをいつも沈黙のうちに、どこまでも開かれたまま、待っていてくれること、いや、すでに無言のうちに受け入れてくれていること、超え包んでいてくれること、そのことではないのか。「空」はどこまでも「空ろ」であり「空しい」。しかし、それは否定的な意味においてではない。一切を超え包む「空」において、すべてが転倒する。空しさの極みにおいて、私たちはすべて受け入れられているのかもしれない。